「こんなにも愛してくれた人がいた」孤独死した67歳の弟は寂しい人生? 姉がたどり着いた意外な真実

雅樹さんが亡くなった後、洋子さんが見つけた手紙

 人嫌いで変わり者の弟が2021年、故郷の関西を遠く離れた札幌市で孤独死した。67歳だった。知らせを受けた大阪に住む姉は想像した。「きっと寂しい晩年を送っていたのだろう」。しかし、飛行機に乗って弟宅の整理に訪れると、ある女性の存在が浮かび上がってきた。「ひょっとして幸福な人生を送ったのかもしれない」。そう思い直した姉は、弟と女性の影を追い始めた。(共同通信=武田惇志)

取材に応じる司法書士の増田正子さん(2023年11月撮影、大阪府八尾市)

 ▽突然の連絡
 2021年6月、大阪府八尾市で事務所を営む司法書士の増田正子さん(51)は、旧知の女性から「弟と連絡が取れなくなった」とLINEでメッセージを受信した。
 送り主は、尼崎市出身で八尾市在住の主婦、永江(旧姓、川崎)洋子さん(73)。洋子さんには、3歳年下で気むずかしい性格の弟、雅樹さんがいた。
 雅樹さんは京都府の私立大学を卒業後、華道の流派団体に職員として就職。40代半ばで実家を出て神戸市へ転居したが、それから次第に音信不通となり、行方が分からなくなった。

永江洋子さんの弟、雅樹さん

 弟はかんしゃく持ちで、子どものころから家族の誰ともそりが合わなかった。小中学校の授業参観では「僕の方を見るな」と母親を避けた。洋子さんとも口喧嘩をし、1年ほど口を利かなくなったことも。それでも、洋子さんにだけは心を開いているように見えた。大人になった後、洋子さんの幼い娘を喫茶店に連れて行き、パフェを何個も食べさせてくれたという。
 2014年に父親が亡くなると、洋子さんは司法書士の増田さんに相続の手続きを依頼した。その際に弟の居場所を調査してもらうと、故郷の関西を遠く離れた札幌市に住んでいた。
 姉弟は十数年ぶりに大阪で再会。ただ、久しぶりに会っても性格は相変わらず。父親の死にも無感動な様子だった。北海道にいた理由も分からない。それでも故郷が恋しくなったのか、雅樹さんは2019年になって大阪に一軒家を購入する計画を立て、こんなことを言った。
 「年をとって雪おろしとかも大変やから北海道を出て、姉さんの近くに行く」
 雅樹さんは不動産屋とやりとりを続け、最終的に契約にこぎ着けたという。姉弟はその後も断続的にやりとりを続けたが、2021年春頃、弟が急に携帯電話に出なくなった。

雅樹さんが亡くなっているのが見つかった自宅

 ▽「寂しい人生やったんやろなあ」
 洋子さんから連絡を受けた増田さんは「これはただ事ではない」と直感した。雅樹さんが糖尿病を患っていたためだ。
 急いで地元の警察に電話し、調べてもらうよう頼み込んだ。雅樹さん宅は一軒家。駆けつけた警察官が2階の窓にはしごをかけ、中に入ると、浴室で遺体が見つかった。
 検視の結果、遺体は死後約2カ月と判明。正確な死因はもはや調べようがなかった。遺体が雅樹さんであることは、DNA鑑定で8月になって確認された。
 遺体を大阪へ運ぶ手続きのため、翌9月に洋子さんは増田さんとともに札幌へ飛んだ。洋子さんは機内で何度も独り言をつぶやいた。「孤独死なんて、寂しい人生やったんやろなあ」「あの子は変わりもので、不幸やった」

手紙が収められた箱

 ところが、到着した札幌市の白石警察署の担当者から、思いがけないことを聞いた。
 「どうやら過去に女性が住まわれていたことがあったようですが、今はいらっしゃいません」
 まったく想定していなかった洋子さんは、驚きを隠せなかった。「人嫌いな弟が誰かを好きになり、一緒に暮らしていた?」。想像がつかない。
 雅樹さん宅は築年数の浅いしゃれた戸建てだった。だが、足を踏み入れると異臭が鼻をついた。テーブル上には山のようなゴミ。荒れた孤独な生活を思わせた。
 さらに、大量のカメラ機材や、カメラ店のレシートや伝票も多く見つかった。写真が趣味だったことは姉も知っていたが、いつのまにかプロはだしとなり、晩年はカメラの修理で生計を立てていたようだ。

雅樹さんに届いた手紙の山

 ▽パスポート
 黙々と清掃作業をするうちに、見知らぬ女性のパスポートが出てきた。年齢は雅樹さんより2歳上、名前は「初川幸恵(仮名)」。
 「警察が言っていた女性とは、この人のことだろうか」
 近所に話を聞きに行くと「数年前まで夫婦として暮らしていましたが、その後に離婚したようです」。
 町内会で班長をしていた男性(56)はこう振り返る。
 「会費をいただく際にやりとりするぐらいの関係だったが、奥さんがいた時は小ぎれいにされていた印象があります。除雪もきちっとされていた。奥さんを見かけなくなった数年前の春先から、雪よけのスコップが倒れても放っておかれていたり、車庫の雑草が処理されないままになっていたりした。そのまま亡くなってしまったのを知り、もっと声をかけてあげられなかったかなぁと思います」

雅樹さんに送られてきた手紙

 ▽亡くなりました
 洋子さんは、幸恵さん本人に会いたいと思った。会って、できれば生前の弟の様子を知りたい。手掛かりを求め、残された郵便物を探した。すると、別の女性からの年賀状を見つけた。この女性に電話し、思いを伝えた。
 「初川幸恵さんという方に会って、弟の晩年について聞きたいんです」
 すると、電話口の女性は答えた。
 「幸恵さんはすでに亡くなっています」
 聞けば、死因は膵臓がん。雅樹さんとは内縁関係で、死後は無縁仏になってしまったという。電話の女性と幸恵さんは華道をたしなみ、姉妹弟子という関係だった。
 この女性によると、幸恵さんの死後、雅樹さんから「華道の道具を渡したい」と連絡があった。2人が内縁関係だったことはその時、初めて知ったという。どんな暮らしをしていたかなど、詳しい事情は全く分からない。洋子さんは落胆した。
 約1カ月後、洋子さんらは遺品整理のため再び札幌を訪れた。清掃業者が遺品を段ボールにまとめてくれていた。約50箱。順番に開けて中を確認していく。すると一つから大量の手紙が出てきた。ほぼ全て、幸恵さんから雅樹さんに送られたもの。読んでみて驚いた。

幸恵さんが雅樹さんに送った手紙の便箋

 ▽ラブレター
 「あなたの何という事のないような衣食住の日々のことがとても大切なのです」
 「あなたに話をして聞いてもらっていると心の中にある固まりがほぐれていく」
 「早くあなたのそばに行きたいです」
 文章は愛情であふれていた。大半は手書きで、封筒に便せんが数枚、詰められている。洋子さんは手紙を一枚一枚読み、幸恵さんの輪郭を描いていった。
 分かったのは、幸恵さんが以前から札幌市に暮らし、会社勤めをしながら生け花に精を出していたこと。
 「(繁華街の)すすき野に飲みに行くわけでもなく、ベラボーな買い物をしたつもりもありません。(生け花の)研究会のあと、お花の友達と食事のひと時を楽しみにしているような生活リズム」と本人が書いている。
 雅樹さんとは、二人が40代だった1990年代に知り合ったようだ。交際開始は96年ごろ。雅樹さんは当時、兵庫県在住。いわゆる遠距離恋愛だった。休みを合わせて会うのもひと苦労だったらしい。幸恵さんは97年の手紙で訴えている。「甘えて言うなら、“一緒にいたい!!”の一言です。だってほとんど離れているし、会えるのは年に数日のことでしょう」

冬の北海道、氷上で撮ったとみられるスナップ写真

 残された手紙は100通以上。雅樹さんから送ったものはほとんどなかったが、けんかの後に交わしたとみられる文章が見つかった。
 「実はとても厳しい第一声を予想していたので、大切な人という優しい字を見てうれしかったです」
 雅樹さんも心のこもった言葉をつづっていた。
 年に数回だけ会い、北海道や関西を旅行する関係。時には、雅樹さんがロックやジャズ、クラシックなどさまざまなジャンルの音楽を吹き込んだテープを送り、幸恵さんはセーターやマフラーを編んでプレゼントしている。クリスマスカードやバースデーカードの交換も、毎年欠かさなかった。

神戸ポートタワーで撮ったとみられるスナップ写真

 登記簿によると、雅樹さんは2008年7月に札幌の自宅を購入している。二人はそのころ一緒に住み始めたとみられる。
 洋子さんは、異郷で孤独に生きたとばかり思っていた弟の知られざる一面に驚き、手紙を読みふけった。「弟の人生は寂しくなんてなかった。こんなにも愛してくれた人がいたんだ」。洋子さんを含め家族は誰ひとりとして気づいていなかった。

撮影場所不明のスナップ写真

 ▽雪道を踏みしめて
 遺品からは請求書も見つかった。2018年1月の札幌医科大病院のものだ。幸恵さんの入院先だろう。亡くなったのもそのころだったと推測された。自宅の購入年から数えると、二人が一緒に暮らせたのは10年ほど。
 「幸恵さんが亡くなって北海道に住み続ける理由を失ったから、関西へ戻ろうとしていたのか」。洋子さんは弟が生前「大阪に転居する」と言った真意を、やっと理解できた。
 洋子さんはその後、幸恵さんと姉妹弟子の女性とも会うことができた。彼女は、雅樹さんと幸恵さんが最後に会った場面を語った。雅樹さんが教えてくれたという。
 冬の日だった。幸恵さんは入院先の病院から一時帰宅し、「家のお風呂に入りたい」と言ったが、病院に戻る時間が迫っていた。外に出ると、降り積もった雪で辺り一面が真っ白。雅樹さんは、病身の幸恵さんが歩きやすいよう、彼女の少し前に立ち、一歩一歩、靴で雪道を踏みしめながら歩いた。そうしてタクシー乗り場まで一緒に行き、見送ったという。
 洋子さんは映画を見終えた後のように、雪道を寄り添って歩く二人の姿が頭からいつまでも離れなかった。人嫌いで気むずかしい弟の、まったく知らない優しい一面に触れたような気がした。

北海道岩内町の町並み(4月17日撮影)

 ▽「きっと幸せだった
 手紙の記述などから、幸恵さんは北海道岩内町の出身だと分かった。洋子さんから話を聞いた私が調べると、実家に住む70代の義姉と話をすることができた。実家はかつて、時計屋を営んでいた。
 義姉は詳しくは語らなかったものの、家族内でのもめ事があり、幸恵さんが町を出て札幌で暮らし始め、疎遠になっていったと教えてくれた。幸恵さんが入院したころは、この義姉の夫が体調を崩し、見舞いにも行けなかった。遺骨については「うちもそういう状態だったし、引き取るわけにはいかなかった」。数年後、その夫が亡くなり、時計屋の看板を下ろした。
 義姉も、幸恵さんが独りで亡くなったと思っていたと言う。雅樹さんの存在を告げると驚いた様子で言った。
 「(一緒にいた)男の人がいたと聞けて、良かったです」
 洋子さんは現在、雅樹さんの位牌の隣に、幸恵さんの遺品の傘を遺骨代わりに安置している。二人は雅樹さんの姉のもとで数年ぶりに一緒になった。

洋子さんが自宅に安置している雅樹さんの位牌と幸恵さんの遺品の傘

 「幸恵さんが存命中、弟を愛してくれたことに私は感謝でいっぱいです。幸恵さんの存在を知る前は、弟の人生は彩りもない寂しい人生だったと勝手に思いこんでいました」
 司法書士の増田さんは、洋子さんと行動を共にするうちに、孤独死に対するイメージが変わっていったという。
「これまで何度も高齢者の孤独死事案に関わってきて、そのたびに寂しさや悲惨さを感じてきました。だけど今回の出来事で、第三者が一方的に悲しいなんて決めつけることはできないなと思うようになりました」
 弟の足跡を追う旅を終え、洋子さんは今、こう感じている。「浴室でひとり、命が尽きた時の弟に思いをはせると、やはり私はつらい。でも、弟には愛する人と過ごす時間があった。きっと幸せな人生だったんです」

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