お地蔵さんに願いを込めて…“地球最後”の光景見た男性の思い継ぐ「ひこじぞう」 核廃絶願い建立から19年

【上】「ひこじぞう」の建立を託された小川美里さん(右)=9月3日、埼玉県さいたま市見沼区染谷の常泉寺【下】常泉寺の境内に建立されている「ひこじぞう」

 埼玉県さいたま市見沼区染谷の常泉寺の境内に、「ひこじぞう」という名のお地蔵さんが静かにたたずんでいる。核兵器廃絶運動の先頭に立って活動した広島の被爆者が、原爆で犠牲となった子どもたちの供養と平和な時代への願いを込めて、次世代に建立を託した。

■原爆と生涯闘う

 田川時彦さん(1929~2003年)は、広島師範学校男子部予科2年の16歳の時に被爆した。東京都内で小学校教師をしながら、核廃絶、平和運動、平和教育に取り組んだ。1979年から東京都原爆被害者協議会(東友会)の事務局長、副会長、会長を24年間にわたり歴任し、会長在職のまま、2003年7月に胆管がんのため74歳で死去した。

 「原爆と生涯闘い、原爆に殺された」。東友会の相談員村田未知子さん(72)=東京都杉並区=は、20年以上にわたり、田川さんと一緒に活動した。原爆で亡くなった人への償いを求め続け、遺族による証言や被爆者の証言を集めた。村田さんは「大変尊敬している。人生の師と思っている」と語った。

 1945年8月6日午前8時15分、田川さんは広島市郊外で作業をしていた。閃光(せんこう)と爆風を受けて倒れたものの、外傷はなかった。同市内の予科寮に戻り、入市被爆する。手を前に出し、ぼろきれのように皮膚を前に垂らしながら歩く異形の姿を目撃し、「地球最後」の光景と証言している。寮では救援と遺体の捜索に従事し、大やけどを負った寮生を抱き起こすと、背中の肉が畳に残り、背骨が見えたと語っていたという。

 田川さんが亡くなる直前、村田さんは入院先の病院に呼び出された。激痛とモルヒネの持続麻酔により混濁した意識の中、近く予定されていた原爆犠牲者慰霊祭の準備状況の確認だった。村田さんは「被爆者一人一人に目を向けることを大事にしていた。最後の最後まで被爆者でした」と振り返った。

 お地蔵さんの建立を考えていた田川さんは生前、置物を見本に欲しがり、村田さんは外出先で購入しては、田川さんに手渡していた。ひこじぞうの写真を見た村田さんは「とにかく優しくて優しくて。田川さんに似ていると思う」と懐かしそうに話した。

■遺志を受け継ぐ

 小川美里さん(46)=富士見市=は大学時代、平和サークルに所属していた。学園祭に招いた田川さんの講演を聴き、交流が生まれた。後輩を原爆で亡くしていることから、「自分はなぜ生きているのかと葛藤し、苦しい思いを抱えながら生きてきた」と話していたという。小川さんは「印象深い話で、戦争は生き残っても人を苦しめていくと実感した」と語る。

 田川さんは2002年12月、末期がんと宣告される。都内の病院を見舞った小川さんらに、「親子で平和を語り継ぐ場所をつくりたい。教え子がお地蔵さんをつくった。若い皆さんに建立する場所を考えてほしい」と託したという。

 「田川さんの体験と子どもたちを思う気持ちを受け継ぎたかった。自分たちでできるのかと不安もあったけど、光栄でありがたかった」。小川さんは地元の埼玉県原爆被害者協議会(しらさぎ会)の会員らを訪ねて相談。広島で被爆した医師の肥田舜太郎さん(1917~2017年)から紹介を受け、「広島・長崎の火」がともされている常泉寺に、建立することが決まった。

 田川さん自身は望んでいなかったものの、時彦から「ひこじぞう」と命名した。隣の石碑には、「『ひ』とりひとりの 『こ』どもたちに笑顔あふれる平和な 『じ』だいを今ここから おじ『ぞ』『う』さんにねがいをこめて」と刻まれている。

 04年8月の建立から、来年で20周年を迎える。小川さんは「穏やかでとても優しい人でした。ひこじぞうの優しいほほ笑みは田川さんの人柄を表している。来年は当時の仲間に声をかけて集まりたい」と話していた。

末期がんの宣告を受け、都内の病院に入院している田川時彦さん=2003年3月22日撮影(村田未知子さん提供)

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