亡き父の夢へ 春高バレー長崎県大会 男子V・大村工のMB船戸 別れから2カ月も、すべてをコートに

父の遺志を胸に大村工高のV2に貢献した船戸=シーハットおおむら

 「お父さんの生きがいは陽一郎が頑張っている姿を想像すること。たとえレギュラーになれなくても、チームを一生懸命に応援している姿を…」。4日、長崎県大村市のシーハットおおむらで開催された全日本バレーボール高校選手権(春高)県大会決勝。男子でV2を飾った県立大村工高3年のMB船戸陽一郎は、9月13日に58歳で他界した父、誠一郎の遺志を胸にコートに立った。がんと闘いながら、最期まで家族のことを大切に思い続けてくれた父に届くように、息子は培ってきたすべてをコートで出し尽くした。

■一番の理解者
 父もバレーボーラーだった。長崎日大高時代はインターハイや春高に出場。大学卒業後、事務職で母校に勤め、男子バレー部の指導に携わった。その後、同じくバレー経験者の晴美と結婚。長男が750グラムの未熟児で産まれたのを機にコーチを辞め、家庭に軸足を置くようになった。
 陽一郎は4人きょうだいの末っ子で、4歳上の姉も中学、高校時代に全国大会を経験したバレー一家。小学5年から本格的に競技を始め、諫早市立喜々津中3年で県選抜チーム入りした。当時は残念ながら、コロナ禍の真っただ中。各種大会が中止となった悔しさもあり「高校で日本一になる」と決めて強豪の大村工高へ進んだ。父はいつも一番の理解者だった。

■腐らずに努力
 約7年前に血便から大腸がんが見つかった父。それからリンパ節、肺や骨などにも転移したが、抗がん剤治療を受けながら、できる限り自宅で家族との時間を大切にしてくれた。応援にも欠かさず来てくれた。この3年間の日本一への夢は、父の夢でもあった。
 今季の滑り出しは上々だった。レギュラーとなり、2月の全九州選抜大会で優勝した。だが、その直後に右膝の半月板を痛めた。約3カ月間の戦線離脱を余儀なくされた重傷。でも、手術はしなかった。メスを入れたら、リハビリも含めて今季が絶望となる可能性がある。何より父に頑張っている姿を見せられない。我慢を決めた。
 復帰後はスタメンから外れていたが、腐らずに努力を重ねた。「強い精神力を得るための試練だぞ」。父の言葉が支えになっていた。
 7月下旬、インターハイの応援で北海道へ行くのを楽しみにしていた父の容体が悪化。ホスピスに入り、大会期間と重なる「余命2週間」を宣告された。「最期は一緒にいたい」。長崎に残るという選択肢もあったが、逆に「行ってこい」と背中を押された。父の手を握り、泣きながら病室を出た。それから1カ月余り、父は家族に見送られて旅立った。帰ってくるのを待っていてくれた。

今夏の北海道インターハイ直前、病室で父の手を握る船戸(左)=長崎市内(家族提供)

■日本一へ挑戦
 別れから2カ月足らず。悲しみを表に出さずに努力を続け、ポジションをOPからMBに転向してスタメン復帰した。プレー中にあまり声を出さないことに対して「かっこつけるな」としかってくれた父。「強い男に成長する姿だけを想像している」と期待してくれた父…。ボールに思いを込めた。
 来年1月、いよいよ日本一を懸けた最後の全国大会が始まる。「3年間の集大成。とにかく元気に、喜んでいる姿を見せたい」。いろんな思い出が詰まったこのユニホームを脱いだ時に「よく頑張ったな」とほほ笑んでもらえるように。=敬称略=

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