<インタビュー>J2いわきの救世主!MF岩渕弘人が語るアマチュア時代の学びと成長とは

昨季J3を初優勝して鳴り物入りでJ2に昇格したいわきFC。最先端のトレーニングを用いたフィジカルトレーニングは有名であり、今季はJ2に新しい風を吹かせると期待されていた。

だが蓋を開けば初のJ2挑戦は苦戦が続き、5月7日に開催されたJ2第14節清水エスパルス戦ではクラブワーストとなる1-9で大敗するなど低迷した。残留争いの渦中、一人の男がチームを窮地(きゅうち)から救った。

男の名は岩渕弘人。昨季リーグ戦31試合10得点5アシストとJ3初優勝に貢献するも、リーグ終盤のJ3第31節テゲバジャーロ宮崎線で右膝前十字靭帯断裂・外側半月板断裂と全治6ヵ月の大ケガを負った。

6月24日第22節大宮アルディージャ戦で復帰した岩渕は、J2デビュー戦で初ゴールを挙げてチームを勝利に導いた。その後大宮戦を含めて怒とうのリーグ戦6試合6得点の大活躍で3勝2分と低迷していたクラブを救い出した。

救世主、いわきの神と多くのファン、サポーターから称えられた背番号19のキャリアを振り返った。

――いつからサッカーを始めましたか。始めた経緯も教えてください。

小学1年から萩荘(はぎしょう)SCというスポーツ少年団で始めました。学校が終わった後に行く学童保育所の前にグラウンドがあって、そこでのチーム活動を見て自分もサッカーをやりたいなと。そこからハマりました。

――中学時代は公立の一関市立萩荘中学校サッカー部に所属しました。振り返っていかがでしたか。

結構厳しかったですね。特に3年間走りがあって、朝練習もたまにありました。土日も自転車で遠いところまで行って、練習試合もしました。チームは自分の3、4個上のときに市内の中学総体で初めて優勝したんですけど、それ以外(の年代)はすごく弱い。市内ではあまり強くなくて、大体4、5番目ぐらいでしたね。

――このとき将来の夢はプロサッカー選手だったと思うんですけど、具体的にイメージはできていましたか。

いやこのときは…。特に中学で岩手県選抜に入ったときは、自分よりみんなうまい選手だったし、体も強い選手ばかりでした。プロサッカー選手になりたいと思っていましたけど、現実的ではないと思っていました。

衝撃の強敵

高校は岩手県の強豪遠野高へ進学した岩渕。ここで挫折をしながらも、後にプロとなる選手との対戦などで大きな刺激を受けた。

――高校は岩手の名門遠野高校に進学されました。一関から遠野はかなり遠いです。なぜ遠野高校に進学しましたか。

小学、中学時代のチームがそんなに強くなかったんですけど、岩手県選抜に呼んでいただけました。その中で違うチームの上手い人たちを見て、すごく衝撃を受けましたね。「レベルが高いな」とずっと中学のときは思っていました。

高校進学で迷ったときに2校で迷っていたんですけど、当時は遠野高校が強かったんですよ。1番強いチームに行って、どこまでいけるのかやってみたかった。結果寮生活になったので、お金もかかるところを親は嫌な顔一つもせず、自分の行きたいところに行かせてくれました。

――遠野高校は当時長谷川仁監督(現不来方高)の下で、テクニックを生かしたサッカーをしていたと思います。遠野高に入学していかがでしたか。

1年目はBチームでしたけど、地獄のような毎日でした。寮生活での上下関係とかですね。Bチームで1年というのもあるんですけど、走りがすごく多かったし、土のグラウンドで練習するので、朝はトンボ掛けをして、昼休みもグラウンド整備して…。練習も早く行って帰るのも遅くて…。いまでも1番きつい1年だったと思います。

――そのきつい中でメンタルも含めて成長した部分はありましたか。

そうですね。人間的にもその1年はBチームの監督がすごく厳しい先生でした。特に自分は学校で擦れ違ったら何かしらで怒られていました。そういう部分で、人間性がすごく鍛えられた。

サッカーではグラウンドに入れば上下関係はない状況なので、ストレスは全然なかったですね。サッカー以外の部分で1年生のときはすごくストレスを抱えていました。でも強豪校に行けばしょうがないと思います。これが高校サッカーなのかなと思っていました。

――高校2年次に選手権で滋賀県代表の草津東高と対戦しました。後にガンバ大阪へ入団する山本悠樹選手と対戦はいかがでしたか。

初の全国の舞台が2年の選手権の試合だったんですけど、いまでもすごく覚えています。草津東とSC相模原のホームスタジアムでやったときに、結果は3対1でアシストができました。めっちゃいいアシストだったんですけど、それ以外では「絶対に勝てない」と思いました。

特に10番(山本)がめっちゃ上手くて、そいつが同い年と聞いたときはびっくりしたし、衝撃的でしたね。

――そんな衝撃的な彼を見て、その後のサッカーに対する姿勢などは変わりましたか。

衝撃を受けて、全国には「こんな奴がいっぱいいるのか」と思ってちょっとビビったり…。特に高校のときは強い相手とやったときに少しビビる部分があって、慣れてなかった。「これが全国なんだ」と思いました。そのときは3年になってからもう1度ここに戻ってきたいという想いが強くなりました。

――最終学年での全国大会はいかがでしたか。

インターハイは県の決勝で負けて行けませんでした。遠野は冬がすごく強くて、県では負ける気がしなかった。だけど全国1回戦で全国優勝した東福岡とやりました。

いま(JFL)鈴鹿(ポイントゲッターズ)にいる中村健人がめっちゃ上手くて、山本悠樹の次に1年越しの「こいつやばいな」という選手でした。彼以外もすごい選手がいっぱいいましたけどね。チームとして0-3ではあったんですけど、何もできなかったですね。

同期は松尾佑介

遠野高卒業後は東北の名門仙台大へ進学した岩渕は、東北有数のストライカーとして成長を遂げた。卓越したオフザボールの動き出し、豊富な運動量で前線からプレスを仕掛け、相手DFが嫌がるプレーを率先してできる泥臭いストライカーへと成長した。

ただ仙台大には東日本のJリーグクラブアカデミーや全国制覇をした名門校の選手が数多く集う強豪大だ。そのため岩渕がストライカーとしての自信を得るまでに時間を要した。

――高校卒業後に仙台大に進学した経緯を教えてください。

高校を卒業するときに大学でやりたいと思っていました。法政大と産業能率大に練習参加しました。法政大はセレクションみたいな形で、確かいま(アビスパ)福岡にいる紺野(和也)がいたんですけど、もうレベル違い過ぎましたね。「絶対ここには入れないな」とすぐ分かって、セレクションももちろん駄目でした。

そんな中で仙台大は東北にあって(地元から)近くでした。大学にはスポーツトレーナーコースもあって、自分もスポーツトレーナーに少し興味があったんですよね。東北では1番強かったし、「プロを出している」という話も聞いていました。自分にもチャンスがあるのかなと思って仙台大に決めました。

――同期には松尾佑介選手(ベルギー1部ウェステルロー)もいました。彼はどんな選手でしたか。

先輩に何もビビらずに、「グラウンド入ったらもう関係ないっしょ」みたいな感じでやっていましたね(笑)。「すごく自分を持っているな」と。最初は同級生からちょっと「あいつは何だ?」という感じで距離を置かれていました。

――彼らしい(笑)。大学4年次には特別指定で大活躍していたときは刺激になりましたか。

そうですね。やっぱり同じ大学で同い年の選手がJ2ですごく活躍しているので、自分も頑張らないといけないと思わせてくれました。当時は自分たちもJリーグに入ったらやれるんじゃないかと夢を見させてくれたと思います。

――仙台大サッカー部に入ってレベルはいかがでしたか。

特に大学1年のときは、Aチームを見たら「すごくレベルが高いな」と思っていましたし、「絶対無理だな」と感じました。

――スタートはBチームでしたけど、最初の1年を振り返ってどうでしたか。

1年目は3、4軍でした。センターフォワードやトップ下をやって、最後の方はボランチをやったりしました。プロになるイメージはほぼゼロでしたね。ただサッカーを楽しんで、大学生を楽しんでいたという感じですね。全然です。

――いつからプロを目指し始めましたか。

1年のときに下のI(インディペンデンス)リーグで3、4軍だったのに得点王になりました。2年に上がるタイミングで、当時のAチーム監督が「得点王になったから少し呼んでみるか」という流れになって、2年に上がるタイミングの長崎キャンプに呼ばれました。

いざ行ったら練習試合でハットトリックしました。そこから監督が「こいつ点を取るな」と評価されて、そこからずっとAチームにいました。特に最初の方はもう何も考えず、ただがむしゃらに走って守備をして、点を取れたら取ってという感じです。もう精一杯やりました。

当時は周りのBチームやAチームの人から「何であいつがAにいるんだよ」、「試合に出ているんだよ」という感じだったと思います。

ライバルに打ち勝ってスタイルを確立

――インターハイ、選手権で得点王になった鳴海彰人選手(青森山田高卒)が新入生として入ってきたわけですけど、強力なライバルが出てきましたね。

自分はBチームから上がってきたばかりだったので、いつ落とされるかもわからない状況でした。そこで高校でめっちゃ活躍した選手が来たので、当時は「どんぐらいやるんだろう」とめっちゃ気にはなっていましたね。

――それでも最後は岩渕選手が競争に勝ちましたね。

得点感覚や嗅覚はあるんですけど、彼はどっちかといえばどっしり構えて、「俺にボールをよこせ」みたいな感じでした。

自分はただ守備を頑張って、裏抜けしてという全然違うタイプだった。そういう部分では途中からはもう全然気にはならなくなりましたね。

トレーニングに取り組む仙台大時代の岩渕

――岩渕選手のプレーの特徴は、相手の嫌がるプレーを率先してできるイメージがあります。そういったプレースタイルは大学で身につけのでしょうか。

そうですね。大学2年の1年間で「自分にできることは何だろう」と考えた結果ですね。試合に出るために何が必要かと考えたときに、前線から守備を頑張って、味方が困ったときに背後へ裏抜けして逃げ道を作ってあげるプレーは、間違いなく大きかった。それで試合に出られましたからね。そこはいまにつながっている部分だと思います。

――いまのプレースタイルに行き着くにあたって、どのような努力や気づきがありましたか。

他の同い年でも関東から来たユースで有名なヤツらと違って、岩手の高校から来て、最初もBチームだったんで。変なプライドがないというか、試合に出るためにこれをやった方が試合に出られるなどを考える力は多分他よりもあった。ずる賢いじゃないですけど、プライドがなかったことが良かったかと思っています。

いわき入団へ

――大学3、4年次に進路が明確に見えていましたか。

そうですね。大学4年ぐらいからプロを本格的に目指して、もしかしたらプロになれるかもしれないと意識していたと思います。

――4年次に天皇杯1回戦でいわきFCと対戦しました。あのときは決勝点を挙げました。試合後にいわきのスタッフに、「練習に呼んでほしい」と自分から売り込みしたと聞いたことがあります。

吉井さん(総監督)や当時の監督を通して、色んなクラブに練習参加させてもらった中で、(いわきとは)毎年練習試合をやっていたので、環境の良さや地域リーグ、JFLでも資金力があると知っていました。

環境もすごく良くて、サッカーに集中できる部分はすごく魅力的に感じていた。天皇杯で勝ったあとに確か吉井さんだったと思うんですけど、(いわきに)お願いして、「練習に行きたいです」と言ってもらったと思います。

――いわきの練習に参加して、いつ内定をもらいましたか。

1回目の練習参加が9月頭ぐらいだったと思います。1週間ぐらいして、2回目の練習参加で、そのときすごく調子も良かったので2、3日後にオファーがきたと思います。

――内定をもらった瞬間はどんな気持ちでしたか。

当時は地域リーグでしたから自分が入るときは、JFLに入るか分からない状態でした。だけどプロ契約だったので、来年お金をもらってサッカーができる。評価してもらってすごく嬉しかったです。

――天皇杯2回戦は松尾選手が所属していた横浜FCと対戦しました。大舞台でJリーグクラブとの真剣勝負はどうでしたか。

そういう機会は練習試合でしかなかった。相手にはキングカズもいたので、いままでは遠い存在だった人やチームと公式戦で、ガチンコで戦えることがすごく楽しみだったし、勝ちたかった試合ですね。

――1-2で敗れはしましたが、あそこで互角にやれた経験は自信になりましたか。

そうですね。チームももう少しやれたと思う。(敗戦は)すごく悔しかったので。あのときはプロでやりたいと強く思ったし、Jリーガーになりたいと思わされる試合だったと思います。

トレーニングに取り組む仙台大時代の岩渕

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