【京都】伏見に残された、知られざる坂本龍馬の歴史

さて、京都伏見では幕末に二つの寺田屋にまつわる事件があったことは有名な話です。

一つは、文久2年(1862)の薩摩藩士の尊攘急進派の有馬新七らを薩摩藩国父・島津久光が送った鎮撫使が鎮圧した寺田屋騒動。もう一つは、慶応2年(1866)に坂本龍馬らが襲撃を受けた寺田屋襲撃事件です。

今回はこの龍馬の寺田屋襲撃事件での逃走について、あまり知られていないニッチなポイントを2つ紹介させていただきます。

1.龍馬たちが寺田屋の周りを囲まれて...

龍馬たちが寺田屋のまわりを囲まれているのを入浴中のお龍がいち早く察知し、風呂から飛び出て階段を駆け上って伝えに行き、なんとかみんなで応戦し、逃げることができた。

この話は有名ですが、寺田屋を出た後の逃走の様子をご存知でしょうか?

寺田屋 道路側より

慶応2年1月に書かれたとされる三吉慎蔵日記によると、「裏口の物置を斬り抜けて、二つの家の戸締りしている扉を斬り破り、破壊のお詫びの挨拶をして小路に逃れ出て、、、」という記載があります。民家を斬り破り、強引に裏の通りまで突破したのです。こうまでしなかったら無事に龍馬たちが逃げられていたかは怪しいですね。

2.伏見土佐藩邸の存在

(伏見土佐藩邸跡碑)

実は逃走時、近くに土佐藩の屋敷が近くにありました。しかし、龍馬は当時2度目の脱藩中で土佐藩に頼ることはできませんでした。

その上、鳥羽・伏見の戦いの前、土佐藩主の山内容堂は「これは薩摩・長州と会津・桑名の私闘であるから、沙汰が終わるまでは戦争に関わることは禁ずる」と告げていたそうです。そのため、この戦いに土佐藩は関わることができなかったのです。

結局、龍馬は土佐藩邸には逃げ込むことはなく、最終的に薩摩藩邸に保護されたというわけです。

今回は寺田屋襲撃事件にまつわる小話を紹介させていただきましたが、いかがだったでしょうか。

ちょっとした歴史を知った上で実際に伏見地域を訪れると、自分がタイムスリップした気分になりました。龍馬の足跡をたどりながら、素晴らしい体験をしていただきたいと思います。

みなさんの旅が素敵な体験でいっぱいになりますように。

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