「ナイトスクープ」も取り上げた「秘宝館」併設の淡路島・立川水仙郷が閉園 戦地から復員、観光地目指し開拓に懸けた男性の人生

閉園した立川水仙郷・ナゾのパラダイスの看板=洲本市由良町由良

 50年以上にわたり淡路島を彩り、多くの観光客を楽しませた立川水仙郷(洲本市由良町由良)が9月に閉園した。併設の秘宝館が、テレビ番組で珍スポット「ナゾのパラダイス」と面白おかしく取り上げられ人気に。だが、観光地になるまでには、15歳で中国東北部(旧満州)に渡って戦争を生き抜き、戦後も開拓に人生を懸けてきた一人の男性の思いがあった。

 洲本市出身の東田芳高さん(享年85)。1926年に農家の次男として生まれ、早くに両親を亡くした。15歳で「満蒙開拓少年義勇軍」として満州に渡った。

 義勇軍には、満州を開拓して理想郷にする人材が全国から集められた。東田さんは兵庫県出身者だけで初めて結成された中隊に入り、41年に満州へ。兵庫五国から名付けられた「五州開拓」として入植したが、木が1本もない砂漠のような荒野で、「淡路の土地とは全然違った」という。

 45年2月、東田さんに召集令状が届き、そのまま軍に入隊。終戦間際、旧ソ連軍の進攻に遭い、隊長が目の前で撃たれ、自身にも玉がかすめた。1人で山中をさまよい、地元住民に服を借りた。生き延びるため、鉄砲も自爆用の手りゅう弾も全て捨てた。

 その後、中国共産党の八路軍に捕まった東田さんはチチハルにあった軍の紡績工場で働いた。そこで、妻の貴久枝さん(享年82)と出会い、長男亮さん(享年71)も生まれた。

 「日本人を全員帰す」。そんな連絡が来たのは、終戦から10年近くが過ぎたころだ。「日本は平和な世の中になっていたが、帰ると場所はなかった」。選んだ道は開拓だった。洲本市南部の立川地区では、既に戦後開拓の入植が始まっていたが、その権利を軍人恩給3万円で買った。

 だが、自然は厳しかった。1年目に植えたミカンとビワはイノシシとシカの被害で全滅。トタン屋根の家も台風で吹っ飛んだ。

 「朝早く起き、星の光で開拓した。出てくるのは石ころばかり。よくうちの母ちゃん(貴久枝さん)が嫌と言わんとってくれた」

 他の入植者が次々と離れる中、東田さんは獣害に遭いにくいスイセン栽培を思い付いた。試行錯誤の末、栽培に成功し、旅館などを通じて観光客にアピール。当時、冬の観光名所がない中、開墾した約6ヘクタールの敷地で、約400万本が咲き誇る水仙郷が67年にオープンした。

 冬以外の季節も観光客を呼ぼうと、多彩な施設をつくった。性を扱う大人向けテーマパークの秘宝館は「ナゾのパラダイス」として、テレビ番組「探偵!ナイトスクープ」で紹介され、関西圏で一躍注目された。

 東田さんは2007年の取材に、命の危険と隣り合わせの戦中を「死んだ人をなんぼでも見てきた。どこでどないなってもおかしくなかった」と振り返り、「人生で戦後の開拓の方が大変だった」と話した。

 そして、立川地区で自生し始めた真っ白なユリを見詰め、「種は翼のようになっていて、遠くに飛ぶ。花を日本中に広めたい。災害の被災地にも。それが人生の楽しみ」と付け加えた。「普通のことをしてたら、死んだらみんな忘れるやろ」とも。

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 貴久枝さんは09年に、東田さんは12年に亡くなった。思いを引き継いだ亮さんも今年9月、71歳で急逝。「ナゾのパラダイス」を案内中に倒れたという。

 亮さんは施設の管理をほぼ一人で担っていた。イノシシの被害が増えた時は、車で寝泊まりをしてスイセンが荒らされないように見守っていたという。

 「父から受け継いだ施設を最後まで守りたかったと思う」と、亮さんの妹山口真理さん(66)=洲本市大野=。来訪者には「冬になったら立川水仙郷のことを思い出してくれるとうれしい」と思いを込めた。 (古田真央子、高田康夫)

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