大河『家康』関ヶ原合戦の謎 小早川秀秋の裏切りは本当に遅かったのか?近年、新説あり 識者が語る

NHK大河ドラマ「どうする家康」第43話は「関ヶ原の戦い」。「どうする家康」最大の見せ場であろう、関ヶ原の戦いが描かれました。慶長5年(1600)8月5日、いわゆる「小山評定」を終えた徳川家康(松本潤)は、江戸に帰着します。家康方の豊臣系諸将が上方の逆徒(石田三成方)を討伐すべく西上するなか、家康は約1ヶ月、江戸を動きませんでした。これはなぜなのか。

1つには、会津の上杉景勝を警戒していたこともあるでしょう。元来、家康は上杉氏を討つため、大坂から下向していたのですが、上方で三成方が挙兵したため、急遽、予定を変更し、上杉氏討伐を中止したのです。もう1つは、三成方を討つため西上中の豊臣恩顧の諸将(福島正則・黒田長政・浅野幸長ほか)の動向を見極めるためだったのではないでしょうか。

西国の大大名・毛利輝元が大坂城に入り、豊臣秀頼を擁するという展開に、豊臣系諸将が家康を裏切る可能性もありました。その真の向背を見極めずして、安易に出陣すれば、家康軍は豊臣系諸将に襲撃されて、手痛い打撃を被ってしまいます。

だが、結果的にそれは杞憂に終わりました。家康方の豊臣系諸将は、家康を見限ることなく、進軍を続け、同年8月23日には、西軍方の織田秀信(幼名・三法師。信長の孫)が籠る岐阜城を陥落させるのでした。諸将の戦功を確認した家康は、9月1日、江戸を出馬します。豊臣系諸将にそれ以上の軍事行動を止め、家康・秀忠父子の到着を待つよう令しています。

9月11日、清須城に到着した家康は、同月14日には美濃国赤坂(岐阜県大垣市)に着陣。徳川の主力部隊を率いていたのは、息子の徳川秀忠でしたが、真田氏が籠る上田城攻めに手間取り、未だ家康のもとに到着していませんでした(よく知られているように、秀忠は関ヶ原合戦に間に合いませんでした)。

西軍の石田三成らは大垣城にいましたが、家康軍に本拠の佐和山(滋賀県彦根市)を衝かれることを恐れ、関ヶ原に向かいます。そして、9月15日、ついに天下分け目の関ヶ原合戦となるのです。

関ヶ原合戦の見せ場の1つは、内応を約していた西軍の小早川秀秋軍が動かないので、家康方が秀秋軍に鉄砲を打ちかける(いわゆる問鉄砲)の場面でしょう。家康の対応に驚いた秀秋は、参戦を決断。西軍の大谷吉継軍に攻撃を開始したとされます。

ところが最近では、開戦と同時に小早川軍らが裏切ったとの説もあり、問鉄砲はなかったのではないかと言われています。よって、早朝から始まった合戦は、正午頃には西軍の敗北に終わるというのです。石田三成は戦場から逃亡しますが、程なく捕縛され、10月1日、六条河原にて処刑されました。

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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