戦前の「駅スタンプ」亡き父が一人で収集? 旅心誘う全国各地の223個 今に通じる観光振興策の一端

父安田善四郎さんが残した戦前の駅スタンプを眺める久保田純子さん=西宮市内

 錨(いかり)山のマークが入った三ノ宮駅、丹波栗とデカンショ節に登場するサルが描かれた篠山駅…。兵庫県西宮市の久保田純子さん(81)は、亡き父安田善四郎さんの遺品を整理し、大量の戦前の駅スタンプを見つけた。その数223個。北海道から鹿児島まで全国各地のスタンプがあった。久保田さんから連絡を受けた記者が「なぜそんなに?」と取材を進めると、戦前、今に通じるようなインバウンド狙いの旅行ブームがあったことが分かった。(高田康夫)

 スタンプは集印帳に集められ、中には薄れて見えなくなっている物も。一部を除き、スタンプ部分を切り取って貼り付けており、この集印帳を手に各地を回ったわけではなさそうだ。

 日付が分かるのは178個。1932(昭和7)年6月5日が最も古いが、ほとんどは33(昭和8)年2~3月に集中していた。同年3月1日のスタンプは、松本駅(長野県)、足尾駅(栃木県)、登別温泉駅(北海道)…。とても一人で回ることができる距離ではない。

 安田さんは当時、御影師範学校の学生。現在の神戸市灘区に住んでいて、何度も旅行できるほど裕福な家庭ではなかったという。御影師範学校に全国から学生が集まっていた様子はなく、各地に旅行に行くお金と時間の余裕があったのか、疑問が残る。

 取材が行き詰まる中、10月に「駅スタンプ大図鑑」(世界文化社)が出版され、戦前の駅スタンプの印影が紹介されていることを知り、編著者の田中比呂之(ひろし)さん(66)に連絡した。

 50年来の「押し鉄」(駅スタンプの収集家)という田中さんは二つの可能性を指摘した。一つは郵便で駅に紙を送って押印を依頼し、スタンプを押した紙を郵送し返してもらう方法。もうひとつは、交換会で集める方法だ。神戸には有名なスタンプ収集グループがあったといい、そこに入れば全国のスタンプを集められた可能性があるという。

 田中さんによるとスタンプは当時、雑誌「旅」で紹介され、全国に普及・定着していった。雑誌には図案の考案者が込めた思いも掲載。田中さんは「考案したのは駅員や学校の先生など市井の人々。地域を知ってほしいという情熱を感じ取ることができた」という。

 安田さんが多くのスタンプを集めた33(昭和8)年には兵庫県観光協会が設立。2年後に発行の冊子「観光地スタンプ巡り」には、「遊覧スタンプは、これが愛好者の激増と地方観光熱とに拍車をかけられて今日では隠れた観光地の駅にもほとんど設備され」などと記され、県内のスタンプと観光地を紹介していた。

 観光振興は当時の国策でもあった。関東大震災や世界恐慌などで社会が落ち込む中、30(昭和5)年には当時の鉄道省の外局として国際観光局が設置。外貨獲得のために外国人観光客も呼び込む意図もあった。「入国外人統計」によると、入国した外国人数や外国人の国内消費額は32(昭和7)年からの5年間でいずれも約2倍になっていた。

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 御影師範学校を卒業した後に教師になった安田さんは戦後、大学院で学び直して地理を専攻するようになった。最後は神戸市立葺合高校の校長を務め、1975年に退職。97年に亡くなった。

 神戸空襲の被害を免れ、阪神・淡路大震災でも残った駅スタンプ。集印帳には朝鮮半島や中国東北地域などのスタンプもあり、久保田さんは「こんなところに行けたらなあという思いがあったんじゃないか。スタンプは地理が好きだった父の原点だったんでしょう」と話している。

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