三島の言葉胸に生きる 55年前、茨城大で熱弁 茨城・那珂の小野瀬さん「人生変わった」

三島由紀夫

「明日死んでも十分な生き方をしなきゃならん」。55年前の1968年11月16日、作家の三島由紀夫が茨城県水戸市文京の茨城大を訪れ、講堂を埋め尽くす学生を相手に討論した。同大は当時、学生運動が激化。学内団体の対立による混乱のさなか、三島は学生にどう生きるべきかを説いた。招いたのは当時、同大の学友会会長だった小野瀬武康さん(77)=同県那珂市。「あの出会いで人生が変わった」。三島の言葉は若者の心を揺さぶった。

■対立続く学内

「私の血の中には水戸の血が多少流れております」。三島は冒頭、水戸との縁に触れた。父方の高祖父が宍戸藩主の松平頼位(よりたか)。三島は「水戸の人は皮肉屋、偏屈と言われる」と祖母から聞かされたとし、「皆さんの批判の嵐の前に立つ気になってきたのも、やはり水戸の血のなせるわざであります」と切り出した。

討論では「イデオロギーと秩序はどちらが大切か」「守るべきものは何か」「未来は存在するか」と問題提起したとされ、これら一連のやりとりは「文化防衛論」(ちくま文庫)に収録されている。

「茨城大学五十年史」によると、学内は当時、体育・文化系サークルによる「学友会」と、寮や生協を束ねる「自治会」、両派に反発する「全共闘」の3団体が対立。同年4月には、学友会と自治会の間で暴力事件が起こるなど、学内は混乱が続いていた。

小野瀬さんは同年10月、三島に直談判すべく、仲間と東京都内へ。早稲田大で開かれた討論会後の懇親会に紛れ込み、機を見て三島と対面し、こう訴えた。「大学の機能を正常化したい。学生を一喝してほしい」。三島は「よし、分かった。行く」。日程も聞かず、首を縦に振ったという。

■会場包む熱気

討論当日は学園祭「茨苑祭」。講堂は学生や市民であふれた。そこへセーター姿の三島が訪れ、会場は異様な熱気に包まれた。

三島と学生は政治思想や死生観について激論。「今日死ぬかもしれないという気持ちだったらば、どれだけ人間は全身的な表現を毎日繰り返せるか」。三島は若者の生き方について熱弁を振るった。

終了後は水戸市大工町の割烹(かっぽう)「魚政」で懇親会。学友会役員ら約30人で三島を囲んだ。ざっくばらんな会話に花を咲かせ、最後に謝礼金を手渡すと、三島が「筆はないか」と尋ねてきた。店に借りて渡すと、謝礼金を包んだのし袋の裏に「三島由紀夫」と書き、ポケットマネーを加えて「君たち頑張れよ」と返してきたという。

小野瀬さんは三島について「エネルギーと心意気の塊のような人だった」と懐かしんだ。

■真剣に生きる

その2年後、三島は東京・市谷の陸上自衛隊駐屯地で憲法改正を訴え、割腹自殺。県庁職員になっていた小野瀬さんは、県外への出張中に事件を知り、三島の死を「驚きと喪失感でいっぱいになった」と話した。

小野瀬さんは三島と交わした言葉を振り返るにつれて、三島の教えを「自分が真剣に生きることが、結果として社会や次の世代のためになる」と思うようになった。

県庁職員として働く傍ら、国際貢献活動や剣道にも打ち込み、剣道は72歳で6段に合格。国際貢献では毎年フィリピンを訪れ、保育所や武道場の創設を続ける。

「三島さんとの出会いを、単なる思い出話で終わらせたくない」。あれから55年。小野瀬さんは今も、三島が遺(のこ)した言葉を胸に生きている。

三島由紀夫を招いた小野瀬武康さん=水戸市文京の茨城大講堂

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