「ゲーム映画の黒歴史」が復活大ヒット!『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』デニス・ホッパーもブチ切れ制作秘話

『スーパーマリオ 魔界帝国の女神 4Kレストア版』©1993-PATHE FILMS

「ゲーム映画」草創期の怪作

ゲームの映画化作品は、今ではすっかりおなじみの一大ジャンルとして、大ヒット作品も多く誕生している。そんな“ゲーム映画化”の歴史の草創期に生まれた、記憶に残る作品として必ず挙がるのがジャン=クロード・ヴァン・ダムの『ストリートファイター』(1994年)と、CS映画専門チャンネル ムービープラスで放送される『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』(1993年)だろう。本作は、特定のゲームをベースにしたハリウッドで最初の映画になる。

今でこそカルト作品としても認識されるようになった『魔界帝国の女神』だが、公開当時は期待して劇場に行った子供たちを「こんなのマリオじゃない!」とガッカリさせた作品であった。しかし、なぜそうなってしまったのか? それは“まだ誰もゲームの映画化とはどんなものか、わかっていなかった”からだ。映画製作サイドも当初は『ゴーストバスターズ』(1984年)みたいな映画を考えていた。というあたりからも、その手探り感を見て取ることができる。

ピコピコの映画だろ?的“無理解”が生んだ製作対立

肝心の監督候補であるが、人格を持ったCGキャラ、マックスを主人公とした英国のサイバーパンクTVドラマ、『電脳ネットワーク23/マックス・ヘッドルーム』(1985年)を作り上げたロッキー・モートンアナベル・ヤンケル夫妻に白羽の矢が立った。社会風刺の要素もある大人向けの番組だった『マックス~』を手掛けたモートンらによって『魔界帝国の女神』は、よりダークな作品になっていく。

主な失敗の原因は、監督側が大人向けの映画を作りたかった一方、スタジオは子供向けにしたい、という正反対の方向性の対立からである。モートンらを起用したのは、単純にコンピューター世界の映像化がわからないため、何かぼんやりと“似たようなものを作っている奴に任せよう”ということだったのではないか。

読者の皆さんの中でも、親御さんなどゲームについて無理解な世代が、プレステでもセガサターンでも、ゲームは何でも「ファミコン」呼ばわりだった、なんて記憶がある方もいるだろう。それと同じような感覚が製作者たちの中にあったのではないだろうか。「ピコピコの映画だろ?」的な。それは演じる側も同様で、マリオを演じたボブ・ホスキンスは、息子に言われるまでゲーム原作の映画だとは知らなかった。

「ヨッシーはこんなんじゃない!」子供そっちのけで文明批判

マリオと言えば、ゲームの方はコミカル&キュートな二頭身キャラだが、リアルな俳優が演じている時点でかなり方向性が変わるのは目に見えていた。ストーリーもルイージの恋愛要素など、ゲームからかなりかけ離れたものだ。が、それだけならまだよかった。

そもそも監督夫妻は子供向けゲーム原作映画を撮るつもりなど全くなかった。自分たちの考える荒廃したディストピア世界や文明批判を描きたい、そんなコンセプトと、世界的大ヒットゲームの映画化プロジェクトが相容れるわけがなかったのだ。

しかし、特殊技術などは当時のハリウッドの粋を集めた布陣であった。舞台となるクッパタウンは『ブレードランナー』(1982年)のスタッフの手によるもので、大規模なセットも力が入っていた。マスコット的な恐竜、ヨッシーも登場するが、キュートなゲーム版とはまったく異なるリアルタイプの恐竜で、当時の子供たちの「ヨッシーはこんなんじゃない!」という当惑は想像するにあまりある。

さらに大きな変更点として、ゲームでは亀型怪獣的なクッパ大王を、スーツ姿のデニス・ホッパーが演じているのだが、その姿は映画公開当時は世界有数の大富豪として有名だったドナルド・トランプをモデルにしている! ……と、子供の観客そっちのけで文明批判、ダークな世界観の制作に注力していたのである。

拘束!骨折! 監督とスタジオの対立が生んだカオスな撮影現場

もちろん“明るく楽しい子供映画”を狙っていた製作側も黙ってはいなかった。ゲームに登場するアイテムを何とか入れ込んでみたり、スーパーファミコンの別売りガンコントローラー、スーパースコープを逆進化銃として登場させたり……と、何とかゲーム的要素をねじ込もうとした。このような監督とスタジオの双方の軌道修正、脚本修正合戦によって、現場はますます混乱していった。

ホッパーによると、現場は「悪夢のようだった」そうである。監督夫妻は現場をコントロールしようとし、決定事項を直前まで現場に伝えなかった。ホッパーは5週間の撮影予定だったところ17週間も滞在させられ、あまりに変更が多いとついにブチ切れ、監督を3時間も怒鳴りつけた。

現場の雰囲気は最悪だった。そんな状況では事故も起こる。ルイージ役のジョン・レグイザモは車に轢かれて足を折った。そんなレグイザモが乱暴に閉めたバンのドアに手を挟み、ホスキンスは手を骨折。以後のシーンはでかい手袋をつけていた。

レグイザモは自伝で、「あまりに現場がつらいので、ホスキンスと飲んだくれてやり過ごそうとした。しかし、どんどん現場の空気が悪くなっていくので、『ここはベストを尽くして終わらせるしかない』と奮起した」と語っている。撮影後も製作側と監督の関係は最悪で、監督を編集室から締め出すなどの大騒ぎになった。

そんな混乱の中、没になったプランも多々存在している。脚本の段階ではクッパ城のダクトを通っていったら『ダイ・ハード』(1988年)のブルース・ウィリスがいる、というカメオ案もあった。クライマックスはブルックリン橋を渡ってクッパ城に爆弾を投げ込む、そんなゲームっぽいシーンが予定されていたのだが、予算超過でボツになってしまった。脚本では『マッドマックス』(1979年ほか)的な、荒廃した世界を車で暴走するようなシーンもあったようで、実現していたら「マリオカート映画」になっていたかもしれない。

未公開フッテージが入ったVHSをオークションサイトで発見!

当時「スーパーマリオ」をあまり知らなかった筆者は、結構楽しめた作品だったと記憶している。しかし、「マリオの映画が見られる!」と思っていた観客には大不評。やはりゲームのイメージとかけ離れていた作品だったからであろう。この作品がコケたことによって、任天堂は構想していた「メトロイド」の映画化の企画を中止し、実写映画は『名探偵ピカチュウ』(2019年)まで作られることはなかった。『魔界帝国の女神』は、ゲーム映画のパイオニアにして黒歴史という称号を得てしまった感がある。

しかし、熱狂的なファンは存在する。この映画についてはファンサイト、<スーパーマリオブラザーズ・ザ・ムービー・アーカイブス>なるものが存在する。活動は単なるファンサイトの域を越え、彼らは2019年に『魔界帝国の女神』のプロデューサー、ローランド・ジョフィがオークションサイト<eBay>に出品していたビデオテープを購入。そこには本編からカットされたシーンや追加シーンが入っていた。これらを復元しようとするプロジェクトや、映画の続編コミックがWEBで発表されるなど、まだマニアたちは活発に活動している。

そしてもう1人、意外なファンがいる。ボブ・ホスキンスの息子、ジョンだ。父にとっての「今までに出た最低の映画」を彼は愛し続け、父の演技を褒め称えた。大人になってもそれは変わらず、<~アーカイブス>の掲示板に「誰に何を言われようと、子供の頃に楽しんだ記憶を忘れるな!」と、この映画への愛を語った。

リバイバル公開に長蛇の列!「この映画を撮って良かった」

『魔界帝国の女神』の後、劇映画を撮ることはなかった監督のモートンとヤンケルは2023年、本作のリバイバル公開のゲストとしてLAのニュー・ビバリー・シネマに招待された。ここはタランティーノ所有の劇場である。

「20人くらいしか来ないと思ってたよ」というモートンの予想に反し、劇場は超満員。さらに追加チケットを求める人々が長蛇の列を作った。上映中も客は大ウケ。30年ぶりに自分の監督作品を見たモートンは、「皮肉な感じじゃなく、純粋に楽しんでくれていた」と、そのとき初めて「この映画を撮って良かった」と思えたという。

今はゲームに忠実な映画化作品だらけで、「スーパーマリオ」もCGアニメーション作品『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』が大ヒットしている。そんな今なら、元のゲームから大脱線した本作も、当時とは違った目線で見直せるのではないだろうか。『魔界帝国~』からは、ゲームという新しい未知のメディアを何とか映画にしようという先人たちの努力や苦労が見え、また新たな楽しみ方ができるかもしれない。

最近、任天堂のもう1つの大ヒットシリーズ「ゼルダの伝説」の映画化が発表された。任天堂ベースのゲーム映画化の中で、もっとも世界観の構築されている作品になりそうだ。この動きがまた新たなゲーム作品の映画化の流れを作ることを期待したい。

文:多田遠志

「『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』 ◆副音声でムービー・トーク!◆」はCS映画専門チャンネル ムービープラスで2023年11~12月放送

© ディスカバリー・ジャパン株式会社