《池上彰解説》「フランス人の誇り」“人権宣言”はいかにして生まれたのか

ルーブル美術館に収蔵されているドラクロワ「民衆を導く自由の女神」(AnthrographerS12 / PIXTA)

今年開催されたラグビーワールドカップ2023、そして来年のオリンピックの開催地「フランス」。華々しいイベントの舞台として注目を集める一方で、北部のアラスでは10月13日、刃物を持った男が高校に侵入し、教師ら4人を死傷させる事件が発生。この事件を受けて、フランス国内のテロ警戒レベルは最高に引き上げられました。

また今年6月末には、警察官による移民の少年射殺事件が発生し、抗議デモが暴徒化。暴動はフランス全土に拡大しました。暴動の背景には移民が抱く経済格差への不満があったとされ、フランス社会の分断を映し出す事態になりました。

労働者の権利が広く認められ、移民を数多く受け入れるなど世界に冠たる「人権国家」として知られるフランス。そのフランスで今何が起きているのか、そもそもフランスはなぜ「人権国家」となったのか、ジャーナリスト・池上彰氏が歴史から解説します。

(#4に続く/全5回)

※この記事は池上彰氏による書籍『歴史で読み解く!世界情勢のきほん』(ポプラ新書)より一部抜粋・構成しています。

「人権」を確立したフランス革命

フランス人が大切にする「人権」の意識が確立することになったのは、1789年に起きたフランス革命です。当時の日本は、まだ江戸時代。その頃にフランスでは革命が起きていたのです。フランス革命については高校の世界史で必ず習う話ですから、ここでは簡単におさらいしておくだけにしましょう。

当時のフランスは封建的な身分社会で、現代では「アンシャン=レジーム」(旧制度)と呼ばれます。第一身分(聖職者)や第二身分(貴族)が特権的な立場にいて、人口の大部分を占めていた第三身分(市民)は抑圧され、不自由な立場に置かれていました。

それでも18世紀に入ると、都市部の第三身分の人たちの中で経済的に成功し、社会的影響力を持つ人たちが出始めます。「ブルジョワ」と呼ばれる商工業者たちです。彼らは次第に人権や自由について考えるようになります。当時のパリではカフェ文化が花開いていました。カフェには新聞や書籍が置かれ、コーヒーを注文した人は自由に読めるようになっていました。新聞を読み、ニュースを知って政治について議論する知識人たちが生まれます。彼らがフランス革命を主導することになります。

当時の宮廷は財政状態が悪化し、国王のルイ16世は全国三部会(第一、第二、第三身分の代表が集まる議会)を招集して事態の打開を図ろうとしますが、これがかえって混乱を引き起こし、革命の舞台に転化します。第三身分の代表は、自分たちこそが国民の代表だとして「国民議会」の開催を宣言したのです。

このとき議長席から見て右側には国王の権威を守るべきだと考える人たちが座り、左側には国王の権威を認めない人たちが座りました。これが右翼と左翼の語源になります。右翼が保守、左翼が革新の代名詞になったのです。

市民が立ち上がった「バスティーユ牢獄襲撃事件」

この混乱の中で、歴史に名高いバスティーユ牢獄襲撃事件が発生します。ここには武器の収納庫があり、市民は武器を奪って立ち上がりました。

また、当時のヨーロッパでは、アイスランドのラキ火山の大噴火で噴煙が上空を覆い、農業に多大の被害を与え、食料不足が深刻になっていました。こうした不満が革命に発展したのです。

国民議会は1789年8月、第一身分や第二身分が持っていた免税などの封建的特権の廃止を決議し、「人権宣言」を発表します。

この中で、国民は生まれながらにして自由で平等であり、主権は国民にあること、法律によらなければ罰せられることはないこと、私有財産の不可侵など、現代でも十分通用する内容が宣言されています。

これが、「自由・平等・博愛(友愛)」というスローガンとして確立します。

役人に対しては行政情報の公開を求める権利も明記しています。いまの日本の官公庁に求められる内容が、既にこのときに宣言されているのです。

この人権宣言が世界に与えた影響は大きく、第二次世界大戦後に成立した国連(国際連合)の「人権宣言」に受け継がれています。

これが、フランス人にとっての大きな誇りなのです。

ナポレオンがクーデターで権力を掌握

その後、1793年にはルイ16世がギロチンにかけられて処刑されるなど、革命は暴走を始めます。これに対し、政治の安定を望む保守的な農民や都市部のブルジョワの支持を得た軍人のナポレオン・ボナパルトが登場し、1799年にはクーデターで権力を掌握し、1804年に皇帝に即位します。

ナポレオン1世が軍の勝利を記念して建設を命じた「エトワール凱旋門」(tolucky1989 / PIXTA)

フランスは豊かな国土に恵まれ、たびたび周辺からの侵略の危機に陥ります。特に海峡を挟んだイギリスと対立しますが、島国イギリスは「シーパワー」を持った国として海戦でフランスを打ち破ります。

これ以降フランスは、ヨーロッパ大国の「ランドパワー」を発揮して周辺への侵略を繰り返し巨大な版図(はんと)を築きます。

このときナポレオンはイギリスの国力を弱めようと、「大陸封鎖令」を発します。大陸の諸国に対し、イギリスと貿易しないように求めたのです。ここでもランドパワーとシーパワーの対決です。

ナポレオン、ロシアの「冬将軍」に負ける

ところが1810年にロシアが大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開すると、怒ったナポレオンは1812年、総勢60万の大軍でロシアに侵攻します。まさにランドパワーの発露です。

これに対し、ロシア軍は、フランス軍との正面対決を避けて後退。フランス軍の進路にある地域の物資や食料を焼き払うという焦土戦術でフランス軍を疲弊させる作戦に出ました。ランドパワーの点で、ロシアの方が一枚上手でした。

このためフランス軍は、モスクワまでの侵攻に成功したものの、物資不足に苦しみ、さらにはロシアの冬の寒さのために大きな損害を出して撤退を余儀なくされます。このときフランス軍はロシアの冬の寒さに負けたという意味で「冬将軍に負けた」と言われるようになります。日本に寒波がやってくるときに天気予報で「冬将軍がやって来る」と言うのは、このときの故事が由来です。

ウクライナの誇りコサックが追撃

フランス軍が撤退を始めると、コサックが追撃。フランス軍は壊滅的な損害を被ります。ちなみにコサックとは、南ロシアでロシア帝国の守りについていた武装騎馬兵のことで、彼らは半農半牧の生活をしていました。現在のウクライナ地方にもコサックがいました。コサックはロシア革命の際に革命反対の立場からソ連の成立に反対したこともあり、現在のウクライナ国歌の歌詞に「我々がコサックの子孫であることを示そう」と謳われ、ウクライナの人たちの誇りとなっています。

このときロシアは、対ナポレオン戦争を「祖国戦争」と呼びました。ロシアという祖国を守った戦争だというわけです。

この戦争はロシアの人たちの記憶に刻み込まれています。「いつ他国の侵略を受けるかもしれない」というトラウマになるのです。

1941年、ナチス・ドイツがソ連に軍事侵攻すると、当時のソ連の指導者スターリンは、ドイツとの戦いを「大祖国戦争」と称し、人々にナポレオンの侵略と戦った記憶を呼び起こしたのです。

敗戦をきっかけに失脚したナポレオンは、一時は復活して政権を奪取しますが、結局、失敗。南大西洋のセントへレナ島に幽閉されて死去。遺体はパリに戻り、現在はパリの「廃兵院(はいへいいん)」に葬られています。

(#4に続く)

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