松任谷由実「DAWN PURPLE」バブル崩壊の空気感をパッケージングしたユーミンの重要作  バブル崩壊の只中にリリースされたユーミンの傑作アルバム「DAWN PURPLE」

バブル崩壊の只中にリリースされた「DAWN PURPLE」

松任谷由実の通算23枚目のオリジナルアルバム『DAWN PURPLE』がリリースされたのは、1991年11月21日。この時期、日本社会は混沌とした状況にあった。いうまでもなくバブル崩壊の只中である。

ユーミンの人気やセールス面がバブル景気とその崩壊に連動している、と言われたのはもう少し後だが、そう語られる理由もわかる。振り返ってこのアルバムを聴いた際に、何か得体の知れない、不穏な感情に揺さぶられてしまうのは、時代の空気感が楽曲にパッケージングされているからではないか。歌詞面に見られる登場人物たちも、どこか不安定な心情を吐露している。

曲調もまた浮遊感を漂わせたコードとメロディーの運びが多い。特にキリンラガービールのCMソングとなった「情熱に届かない〜Don't Let Me Go」はその象徴的な曲で、ヒタヒタと何かがやってくるようなイントロからして不安感を掻き立てる。分数コードを多用したメロディーはいつものことながら、“♪君がいた夏の〜”からのBメロでは、マイナーからメジャーに移っているのに、明るさや広がりよりも不安感が強く出ている。夕景の二子玉川駅を舞台に、戻らない青春を回顧しているうち、将来の不安を抱えながら遊びまわっていた若い頃の感情が一気に現在に蘇ってくるのだ。これは、主人公の現在の心境が不安定だからに他ならない。結論が出せない思いを訴えかけているのである。

無機質なデジタルビートに野性的な生命力を与えた「Happy Birthday to You〜ヴィーナスの誕生」

サウンド面では、電子楽器 “シンクラヴィア” を用いた87年『ダイアモンドダストが消えぬまに』以降のデジタルサウンドもかなりこなれた音になり、当時のトレンドであるハウスを用いたマシンビートの楽曲が増えているが、リーランド・スカラー、エイブラハム・ラボリエルといった外国人ベーシストの参加もあり、粘っこく跳ねたビートを生んでいる。

冒頭を飾る「Happy Birthday to You〜ヴィーナスの誕生」はその典型作で、87年に小林麻美に提供した「遠くからHAPPY BIRTHDAY」が原曲。アレンジとテンポも変わり、歌詞もほとんど差し替え、出産をイメージした楽曲(ヴィーナス=胎児)になっている。ユーミンに出産の経験がないのは周知の通りだが、これはセカンド・バースデーというアルバムのコンセプトに基づいてのもの。後半にゲストボーカルの久保田利伸が豪快なスキャットを奏で、無機質なデジタルビートに野性的な生命力を与えている。

ハウス風の楽曲では「千一夜物語」も。このアルバムを引っ提げたコンサート『DAWN PURPLE TOUR』でこの曲が歌われた際は、蛍光色の衣装でコーラスとともに激しいダンスで歌い踊り、バックの大スクリーンにはユーミンらしき女性のシルエットがエアロビクスのようなダンスを延々踊る姿が映し出された。

自分を振った男性に魔法をかけて、生まれ変わった自分に振り向かせるという歌詞は、85年の『DA・DI・DA』以降顕著になった、恋愛での女性上位的な視点に加え、88年の「幸せは貴方への復讐」などにも通じる、女性側からの逆襲ソングである。

“アッシー、メッシー、ミツグくん”の終焉を思わせるユーミンの描く女性像

こちらもハウスを導入した「タイム リミット」は、プライドをへし折られた高飛車な女性の捨て台詞が満載。バブル期に流行った流行語 “アッシー、メッシー、ミツグくん” の終焉を思わせるようで、ユーミンの描く女性像も時代とともに変化していることがわかる。

ミステリアスなメロディーラインの「誰かがあなたを探してる」は、コンピュータを題材に恋愛感情を重ねた実験作。ビデオデッキの早送り・巻き戻し機能を恋愛の進行に準えた86年の「ジェラシーと云う名の悪夢」や、シューティングゲームと恋愛を重ね合わせた89年の「LOVE WARS」などと並ぶものだ。それぞれのツールが一般的に広まった絶妙のタイミングで発表されているので、その点も時代とのシンクロで語られる要因か。

Cメロで、ヴォーカルにエコーをかけコンピュータの中に主人公が入り込んだかのような演出を施し、その後ヴォーカルとタイム・ファイブのコーラスだけになり、ここだけマンハッタン・トランスファー風になるのが面白い。だが結局、相手の男は最後まで姿を表さないのである。

時代のダイナミズムを体現する尖った作風とは真逆の、長年のユーミン・ファンにはお馴染みの世界も用意されている。「9月の蝉しぐれ」に見られる「坂道の下のバス停」「夏服」といったノスタルジーを喚起させる単語、「深緑がひとはけ薄れる」で時間経過を描写する表現力にも感服するが、Aメロの冒頭とサビの頭部分が同じメロディーという大胆な曲構成にも驚かされる。

初夏の海辺を舞台にした「サンドキャッスル」では、ナイロンコートの裾が揺れる様子と、打ち寄せる波を “波のフレアー 白いレースの泡” と見立てリンクさせている。プリンスとプリンセスが住んでいた砂のお城が、波の泡(バブル)に洗われ崩れる様子は、バブル崩壊を予見していた、というのは流石に穿ちすぎだろうが…。

もう1つのテーマはヴァーチャル・リアリティ

そして、全10曲を通して気づかされるのは、視覚のみならず音や匂い、あるいは気温や湿度といった “体感” がサウンドと歌詞に刻み込まれている点である。これはもう1つのアルバムテーマでもある ”ヴァーチャル・リアリティ” から来ているもの。

ことに匂いに関するフレーズは数多く、「情熱に届かない」の吹いてくる夏の匂い、「タイム リミット」の鼻を突くリムーバーの匂い、「千一夜物語」のラベンダーのため息、「インカの花嫁」のムスクの香りなど、匂いの描写を取り入れ、聞き手にイメージ喚起させるのだ。

特に「遠雷」ではむせかえるような湿度の高さをサウンドで表現しており、イントロからして気圧の低い雨の午後の圧迫されるような空気感が伝わる。これこそ松任谷正隆アレンジの真髄であるが、歌詞面でも “紫陽花の雨” “エメラルドの涙” とイメージ喚起力をもたらすフレーズが散見される。

“弾けた恋閉じ込めてたビー玉の泡” とはラムネの瓶=懐かしい少女時代の、初恋の記憶であろうか。また “ブロンズの肌” というフレーズ1つで、この男女が深い関係にあったことを示唆している。

収録曲のどれとも方向性が違う異色作が「インカの花嫁」だ。この曲は88年にユーミンがペルーのマチュピチュを旅した際(雑誌『エスクァイア』日本版別冊『TIERRA』にルポが掲載)、インカ帝国時代の “太陽の処女” の神話からイメージを膨らませ出来上がった曲。都市生活のバブルがピークに達していたことを歌ったアルバムの中で、ここまでプリミティヴな世界を提示していたことにも驚かされるが、恋愛の教祖と言われカリスマ的扱いをされていたユーミンが違う方向性を見せ始めたとも言える。

アフリカへの傾倒は時折見られたが、この作品以降、ネイティヴ・アメリカンのナバホ族を題材にした「HOZHO GOH(ホジョンゴ)」や、ヒマラヤ旅行の体験を生かした「KATMANDU」を書き、モンゴルに旅行しホーミー(モンゴルの伝統的歌唱法で、倍音を生かし、低域と高音域を同時に出す)と出会い、自作アルバムに取り入れるなど、曲想を海外の秘境に広げていく。

死別あるいは輪廻転生をイメージさせるタイトル曲「DAWN PURPLE」

タイトル曲「DAWN PURPLE」は、「Happy Birthday to You〜ヴィーナスの誕生」と対になるかのような、死別をイメージさせる楽曲。夜明け前の空の紫色は、胎児が出産時に感じる色だとも言われており、輪廻転生、生まれ変わりのイメージも重ねているようで、テーマである「セカンドバースデイ」とも合致する。

荘厳なアコギのカッティングがアイリッシュなムードを醸し出し、2ハーフのシンプルな曲構成が多い中、転調を駆使したメロディーラインも特筆すべき点だ。

『DAWN PURPLE』は、前作『天国のドア』やその前の『LOVE WARS』のように、イケイケで確信に満ちたメッセージはなく、キラキラした都市の華やかさや女性たちのパッションも後退している。マシンビートのハイパーなサウンドは、急速に進行していく時代のテンポを表現しており、逆に人々は狂騒の時代からいったん立ち止まり、不安な心理を隠せずにいる。サウンドと歌詞の分離は、この時代の日本人の心境そのものだ。このアルバムは時代の転換点で発表された、やはりユーミンにしか作れなかった重要作品なのである。

カタリベ: 馬飼野元宏

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