全アルバム一斉配信【ザ・ルースターズ】解散へと向かう冷たい炎のロックンロール!  ルースターズ、デジタル一斉配信!後期の魅力を徹底解剖!

有機質から無機質になった後期ルースターズ

2023年11月1日、ザ・ルースターズ、デジタル一斉配信!これは嬉しい。EPを含めた全13タイトル。シングルのB面曲や12インチシングル収録曲など、漏れた曲もあるにはあるが、続けて聴くと、これはなかなか壮観だ。

今回のデジタル配信は、“THE ROOSTERS” と “THE ROOSTERZ” という2つのアーティスト枠に分けられている。ご存知のとおり、前者は1980年のデビューから1983年年のアルバム『DIS.』までの時期、そして後者は1984年の『GOOD DREAMS』から1988年の(一応の)解散まで。

2005年にシンコーミュージックから発刊された『words for a book』で、初代フロントマンの大江慎也は、この改名にはさしたる意味はないと語っている。同時に、“SからZか… なんだか有機質から無機質になったなって今にしてみると思うけど” と語っている。そして本稿のお題は無機質な時代、すなわち後期ルースターズだ。

“S” 時代は自分の中学2年〜高2の頃と重なるが、この頃のルースターズは、ぶっちゃけ不良が聴く音楽だった。横浜銀蝿は何か違う、又吉&なめんなよなんて冗談じゃねえ!… というような硬派な不良だ。短ランにボンタンを履いている同級生たちに勧められ、不良ではない自分も聴くようになった。威勢がよくて、速いロックンロール。

それが変化し始めたのは1982年のEP『ニュールンベルグでささやいて』あたりからで、この頃から大江が精神的な問題を抱えるようになっていくのは、ファンならご存知のとおり。それについては、以前リマインダーに書かせていただいた博多ビートパレード:ルースターズとロックンロールが引き寄せた出会いで、ぜひ一読を。

下山淳、安藤広一らを加えた新体制のルースターズ

ともかく、“S” の後期にドラマーの池畑潤二、ベースの井上富夫が相次いで脱退。オリジナルメンバーで残ったのは大江とギターの花田裕之。ここに新たにギターの下山淳、キーボードの安藤広一らを加えて新体制を整えて ”S” の時代を締めくくり “Z” の時代に突入する。

しかし、“Z” 時代の始まりは、名前こそ変わったが安定とは程遠かった。最大の不安要素は、大江の病の悪化。高校時代、音楽専科やロッキンオンのルースターズの記事を読む度に、”このバンドは大丈夫なのだろうか?” と、しばし思ったものだ。“Z” の最初のアルバム『GOOD DREAMS』は8曲中、4曲が過去の曲の別ミックスという内容。曲作りが遅れていたことは田舎のボンクラにも容易に想像できた。

大江最後のアルバムとなった1984年の『Φ PHY』は基本的にはサイケデリック路線だが、これまで以上に暗い影に覆われている。たとえば「STREET IN THE DARKNESS」の一節。

 夜より暗い 昼間の街角
 誰か生き方 教えておくれ

作詞はルースターズの大先輩、柴山俊之(サンハウス)によるものだが、当時の大江が歌うとシャレにならない。『FOOL’S MATE』誌1989年5月号で、大江は当時を振り返り、こう語っている。“あの頃、考える行為は全て自分の内部を見つめる方向に向かっていたし、外の世界のことはもう何も考えられなくなってしまった…”

1985年2月のライブを収めた映像作品『PARANOIAC LIVE』の痛々しい大江のパフォーマンスを見ると、この発言も飲み込めてしまう。

花田をフロントマンにした4人組へと変容

『Φ PHY』リリース後、安藤の脱退に続いて、大江が長期療養に入り、“Z” は花田をフロントマンにした4人組へと変容する。1985年7月にリリースされた12インチシングル『SOS』には驚かされた。とにかく明るかったから。さらに言ってしまえば、歌謡曲のようにも響いた。当時19歳の自分は正直、とまどった。当時の日本のロックシーンはBOØWYがメインストリームになりつつあり、このような変化も仕方ないのだろう… と自分に言い聞かせる。2か月後にリリースされたアルバム『NEON BOY』は従来のサイケデリック路線に戻り、なんだかホッとしたのを覚えている。そして、ルースターズの活動が混沌と思えたのは、この頃までだ。

1986年にリリースされた、花田体制での2枚目のアルバム『KAMINARI』はバッキバキのロックンロール・アルバム。もちろん、歌う人が違うのだから大江時代とは比べられないが、これはこれでメチャクチャかっこいい。バンドを継続することに迷いがなくなったのか。ともかく、上京して彼らのライブを見ることができるようになった二十歳の自分には大満足だった。花田作の高速ロックンロールもさることながら、下山によるナンバーや彼のギターのサイケデリックなムードも、ルースターズ史の中では説得力を帯びていた。これは翌年のアルバム『PASSENGER』も同様だ。

当時のライブでは、ザ・バーズの「ロックン・ロール・スター」が下山のボーカルでカバーされていた。バーズのオリジナルはフォーキーなので、むしろパティ・スミスのアルバム『ウェイブ』(1979年)に収録された轟音カバーに近いノリ。ルースターズによる、このカバーは当時ライブに通っていた身にとっては、まさに “Z” の黄金期の象徴。これがさらに続くと思えたのだが……。

最後のスタジオアルバム「FOUR PIECES」そして解散へ

1988年、ルースターズは解散を発表する。最後のスタジオアルバム『FOUR PIECES』では、ベースが柞山一彦から元ザ・ロッカーズの穴井仁吉に、ドラムが灘友正幸から元ローザ・ルクセンブルグの三原重夫にメンバーチェンジ。リズム隊の強化により、腰の据わったロックンロールが繰り広げられていた。が、『KAMINARI』『PASSENGER』では1曲のみだった下山が歌う曲が、3曲に増えている。当時のインタビューによると、花田と下山が目指す方向性が、ズレていったとのこと。端的に言えば、これが解散の原因だった。

1988年7月22日、渋谷公会堂で “Z” の最後のライブが行なわれた。自分もいそいそと足を運んだが、解散の感傷はまったく覚えなかった。最初のアンコール「C.M.C」で大江、井上、池畑が飛び入りしたときのバカ騒ぎのようなパフォーマンスは、今も脳裏にこびりついている。ただし、“S” と “Z” が交錯した祭はこれで終了。2回目、3回目のアンコールでは再び4人はサポートのキーボード、MUTE BEATの朝本浩文とともにステージに立ち、“Z” のロックンロールを淡々と叩きつけて去っていった。

大江の言う通り、“Z” は無機質といえば無機質かもしれない。花田と下山は、そのうえで迷いながらも、冷たい炎であぶり出すようなロックンロールを生み出していった。花田時代のライブではMCを担当するのは、ほぼ下山。“S” の頃から変わらず花田はつっけんどんで、「はなだー!」というコールがオーディエンスから上がっても「なんじゃい!」と突き放すように怒鳴る。花田の低体温と下山の明るさ。そこに無機から有機が生まれていくような、そんな感触があったのだ。

1988年の音楽シーンはルースターズの解散を含めて、悲喜こもごもが混在する、なんとも不可思議な年だった。とてつもなくピッグになったBOØWYは、この年の4月に解散。そして79年の活動休止以来、シーンから遠ざかっていたパティ・スミスは9年ぶりの新作を発表した。

カタリベ: ソウママナブ

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