“被爆の生き証人” 旧広島陸軍被服支廠 国の重要文化財指定へ 保存・活用求める被爆者らの思い  

国の文化審議会は24日、広島市南区にある最大級の被爆建物=旧広島陸軍被服支廠を、国の重要文化財に指定するよう文部科学大臣に答申しました。
この答申を受けて年明けには正式に指定されることとなり、保存に向けて大きく動き始めます。

被服支廠は原爆の爪痕を残す“生き証人”として、被爆者などが長年、保存や活用を訴えてきました。

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今週、旧陸軍被服支廠であった高校生によるアート作品の制作。白い布に並べられた木片は、原爆で負傷し毛布の上で手当を受ける人たちをイメージしたものです。被服支廠で多くの人が亡くなった歴史を知ってほしい、という思いから取り組みました。

高校生
「亡くなった人、今、自分たちが平和に暮らしていることのありがたみも知ったしこの建物の大切さも知ることができた」

旧陸軍被服支廠は1907年、軍服などを製造する軍需工場として設置されました。当時は縫製や製品の検査等で数百人規模が雇用されていたといいます。兵士たちは被服支廠で作られた軍服を着て宇品港から出征したのです。

1945年8月6日ー。被服支廠は原爆投下による倒壊を免れ、臨時の救護所となって、多くの人たちが運び込まれました。

被服支廠の近くに自宅があり、学徒動員でここで働いていたこともある被爆者の切明千枝子さんは、地獄のような当時の惨状を、かつてこう語っていました。

被爆者 切明千枝子さん
「足の踏み場もないような感じで、やけどの人とか学生さんとか。皆、うめいたりうなったり。今は何の香りもにおいもないが、その時は本当に汚物の臭いやら血膿の臭い」

広島の市民グループも爆風で変形した鉄の扉など、被爆の爪痕の残る被服支廠の保存・活用を訴えてきました。

保存を訴え続けた被爆者 故・中西巌さん
「この中でたくさんの人が避難して苦しみながら亡くなった。そのことが忘れられない」

しかし被服支廠の耐震化には多額の費用がかかることから4年前、県は一旦所有する3棟のうち1棟だけ保存し、残る2棟は解体するという方針案を示します。

湯崎英彦 広島県知事
「旧被服支廠は劣化が進行していて、震度6強の地震で倒壊、崩壊する危険性が高い」

議会で答弁する広島県の担当者(2021年)
「現段階では、建物の解体を俎上に載せるのは適当ではない」

ところが、被服支廠は「国の重要文化財の価値がある」という有識者の指摘を受けて県はおととし、3棟全て耐震化する方針に転換。ただ、1棟当たり5億8千万円という耐震化の工事費が、物価高でさらに増えると見込まれたため、湯崎知事は今年6月、国に支援を要望します。

湯崎英彦 広島県知事
「抜本的な拡充をしてもらうか、新しい制度、ないしは特別な対応をお願いしないといけない」

これを受けた国は、補助金を耐震化工事に充てられる国の重要文化財指定に前向きな姿勢を示し、8月6日の原爆の日にはー。

岸田文雄 総理
「当該建物の活用等について方針が定まれば、国の関連事業を通じた支援、こうしたものを速やかに行っていきたい」

重要文化財指定の動きが加速していったのです。4棟のうち1棟を所有する国も耐震化を表明し、4棟全ての保存に大きく近づきました。

原爆投下から78年。94歳の切明さんは、戦争の悲惨さを伝え、広島の歴史を物語る建物として有意義に活用してほしいと話しています。

被爆者 切明千枝子さん
「戦争中の広島、原爆にやられて戦後の広島、それをずっと物は言わないが見てきた建物だと思う。負の遺産ではあるが、あれは崩してしまってはいけない。残しておくべきものだと思う」

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中根夕希 キャスター
私も祖母が被爆者。祖母の姉は、当時この被服支廠で働いていて、軍服を作っていたが、原爆で残念ながら即死したようだ。祖母たちも当時、姉を探しに行ったが建物の中には亡くなった方々の骨がたくさんあって、誰が誰か分からなかったという。祖母はその中で骨を1つだけ箱に入れて持ち帰ったそうだ。被服支廠は人々が亡くなった歴史を伝え続ける必要がある。

今後の活用策について県は、国や広島市と協議しながら▽交流拠点▽平和や歴史の学習拠点▽国内外の観光拠点という3つの実現可能性を検討するという。どのように活用されるのか議論の行方が注目される。

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