<インタビュー>大ケガからの契約満了、名刺を配ったトライアウト、J3八戸MF山田尚幸が逆境を乗り越えて成し遂げた偉業とは

2023年11月4日、男は偉業を達成した。J3ヴァンラーレ八戸MF山田尚幸主将が第34節FC岐阜戦でJ3通算最多出場記録となる251試合出場を果たした。

現在253試合出場と最多出場記録を更新中の山田だが、想像を絶する険しい壁を乗り越えて金字塔を打ち立てた。

2021年シーズン終盤の9月5日。J2ブラウブリッツ秋田に所属していた山田は、右膝前十字靱帯(じんたい)断裂の大ケガを負った。

そしてリハビリに励む最中、同年11月にクラブから契約満了を言い渡された。絶望の中で窮地(きゅうち)に立たされた男の壮絶な軌跡を追った。

大ケガ、契約満了の絶望

――まず秋田の2021年シーズンは振り返っていかがでしたか。

ケガがあったシーズンですね。筋肉系もありましたし、最終的に膝をやってしまいました。なかなか試合に絡めない悶々(もんもん)としたシーズンで、100%の力を出せないシーズンでした。

その中でサブで試合に出たり、出なかったりと続いた中で、練習試合がありました。自分の状態はそんなに悪くなかったけど、調子がいいときにケガをするというか。そういったときに初めて大きなケガをしました。腓骨の骨折などはあったんですけど、前十字靭帯(じんたい)断裂という半年以上の長期離脱は初めてでした。

(振り返って)「え、こんなんで膝をやるの?」という感じでしたね。手術を受けて、長くチームを離れないといけない状態でシーズンを終えました。ケガで次のシーズンに遅れるだろうし、自分の中では「さすがにチームをクビになると思っていなかった」という甘い考えをしていました…。

もう1年チャンスをもらって、そこでケガから復帰して「どれだけ自分ができるか」と考えていたんですけど、そんなに甘くないという現実を突き付けられました。正直どうしたらいいのかというシーズンでしたね。

――契約満了を言い渡された時期はいつでしたか。

シーズン終盤の11月くらいですかね。トライアウトが12月8、9、10日とその辺でしたので、11月末ぐらいだったと思います。

――クラブから満了を言い渡された瞬間は、どのような心境でしたか。

もう本当に絶望というか…。自分はなにもできなかった。やっと軽いジョグができたかなというぐらいの段階までしか回復していなかったので、サッカーなんて到底できない身体でした。満了を提示されたときは本当に絶望しましたね。

秋田時代の山田

――ケガしたときに現役引退は過りましたか。

ケガしてどうなのかなと思ったんですけど、自分の中でこのまま引退するのは悔しすぎる。

秋田を悪くいうつもりはないですけど、これだけ秋田のために頑張ってきて満了を提示されたときは、悲しい思いをしました。反骨心じゃないですけど、「もっと俺はやれるぞ」と見せたかったし、まだまだ続けたい気持ちもありました。

トライアウトでの名刺交換

秋田では主将を務め、2度のJ3制覇を経験。中盤のハードワーカーとして泥臭い仕事を率先してこなし、優れた危機察知能力でピンチの芽を摘んだ。過去に秋田を2度率いた現東海社会人1部wyvernの間瀬秀一監督も「彼は素晴らしい男です。選手としても人としても」と手放しで絶賛するほどだ。

誠実で実直な人柄、選手としても何度もチームを窮地(きゅうち)から救ってきた男の退団はサポーター界隈でも激震が走るほどの出来事だった。思うように身体を動かせない中、契約満了を言い渡されたJリーガーが集うJPFA(日本プロサッカー選手会)トライアウトが刻々と迫っていた。時間がない―。絶望と焦燥に襲われる山田はある決断をした。

――契約満了からトライアウトまでのリハビリや治療は、秋田からのサポートを受けていましたか。

一応その段階では、「チームが決まらなかったらウチでケガが治るまで…」と秋田が持つという話はありました。

――トライアウトまでの期間が約2週間でしたけど、どのような準備をしていましたか。

ずっと秋田に「来年はないか」、「もう1度ないか」という交渉をしていました。僕は代理人を付けていなかったので、自分の知り合いにお願いして、「どこかないか」と探してもらっていました。

――JPFAトライアウトでは、自身のプレー動画のURLがプリントされた名刺を関係者に配られました。葛藤はありましたか。

葛藤というか…。自分には家族がいて、子供もいて、(このままでは)路頭に迷うじゃないですか。次のチームが決まっていない状態で「どうしたらいいのか」と考えていたときは、「知り合いに声をかけてもらっているチームの返事待ちしかないのかな」と思っていました。

(あるとき)自分の奥さんが「トライアウトに行けばいいじゃん。アピールできるでしょ」と言ってくれて、「名刺を配って、自分で行動できることはないの?」と背中を押してもらえました。

確かにトライアウトへ行って、自分のプレー集(の動画URL)を名刺に載せて、配ればアピールにはなる。それを実際にやった人はいないけど、「やればいいじゃん。何でもやれるでしょ」と奥さんが言ってくれて、いざ行動に移しました。

選手会(JPFA)の方に連絡を入れて、それが「OKなのかどうか」という会議があったみたいですけど、通してくれました。コロナ禍だったので、OKが出るのか分からなかったんですけど、名刺交換ができるようになりました。

――記憶の範囲で、大体何部ぐらい名刺を刷って来場しましたか。

200枚ぐらい刷ったかな。100枚以上は刷っていたと思います。50以上のクラブと交換させてもらえました。J1からJ2、 J3、JFL、 地域リーグと幅広い人たちと交換させていただくことができましたね。

(名刺交換は)僕一人だけの力じゃないです。プロ選手会の人からもいくつかサポートしてくれました。その当時のトライアウトはフクダ電子アリーナでやったんですけど、名刺を配る場所に会場を運営している会社で働くベテランの方がいました。

(関係者を)待っているときに、その方からJ1、J2のチームに知り合いが何人かいるという話を聞かせていただけました。

それでその方と一緒に、(関係者に)声をかけてくれました。僕だけで声をかけても名刺を取りに来てくれる人もなかなかいないですから。(協力してくれた方も)大きな声を出して、一緒に名刺交換のサポートをしてくれました。

自分が行動したことによって助けてくれる方がいて、いまの僕があるのかなと。その行動によって、成功したのも僕一人だけの力じゃないです。いろんな人のサポート、支え、背中を押してくれる人たちがいて、いまの僕があると思います。本当に感謝しかないですね。

――名刺交換した方々からはどのような声をかけられましたか。

「頑張ってね」という声もありました。トライアウトは2日間あります。選手は1日の午前、午後と、どっちかだけに参加だったと思います。僕は2日間の午前・午後、午前・午後といたので、1日目で多くの方々と名刺交換する中で、2日目午後に同じ人に同じ名刺を配って、「昨日もらったよ」と言われたこともありました(苦笑)。

対戦相手で僕を知ってくれている監督や、GMから声をかけてくれる人もいました。僕が声をかけたら優しく近寄ってきてくれて、面識がなくても名刺交換をしてくれるチームの方々もいました。本当に感謝しかないです。

その後の話になりますけど、アウェイの試合が終わってロッカーからバスに移動している間に「おう!」と急に声をかけられました。知らない方だと思ったんですけど、「トライアウトのとき、名刺頂いた○○です」と声をかけてくれた方がいました。このつながりはすごいと感じましたね。

ラブコールは勘違いもあって

トライアウトで山田はプレーを見せられなかったが、名刺を配り歩いて多くのチーム関係者にアピールした。誠実で実直な人柄に多くの関係者が心を動かされたという。その誠意が伝わったことで、Jリーガーを続ける道を切り開くことができた。

――名刺を配ったことで八戸への入団につながったと思います。入団経緯を教えてください。

名刺交換しているときに、その当時の八戸の監督が葛野昌宏さん(現、東北社会人1部コバルトーレ女川監督)でした。葛野さんが僕の前を通ったときに、名刺を交換したら「俺、知っているよ」と。

「秋田のキャプテンで対戦したこともある」と声をかけてくれました。「ウチにはキャプテンがほしいんだ。リーダーシップのある選手がほしいんだ」と話をしてくれました。その場は終わったんですけど、後日監督直々に連絡をいただきました。「ウチとしては本当にほしい」と電話で話してくれました。

――名刺交換以前から葛野さんとはお知り合いだったんですか。

これは裏話になりますけど、僕が秋田で八戸と対戦したとき、僕と葛野さんにつながりはなかったんです。

葛野さんの1個前の監督だった中口雅史さんと知り合いでしたので、あいさつに行ったんですよ。僕は中口さんから葛野さんに監督が代わったことを知らなかったんですよね。

試合終わりに中口さんにあいさつしに行ったと思ったら葛野監督だったので、あいさつしたら葛野監督が「あれ、俺山田とつながりあったのかな?」という(笑)。「どこかで俺は山田と知り合ったのかな?」という話をずっとスタッフと話していたらしくて、僕が間違えただけなんですけどね(苦笑)。

後日八戸に入団が決まって、キャンプのときに葛野監督に呼ばれて「山、(対戦したときのあいさつは)人違いだよな?」と言われて、「はい、間違えました」(山田)という話から「あの後からずっとお前のことが頭から離れなくて」と(笑)。スタッフとずっとその話をされていたみたいです。

僕が「じゃあそれもあって僕が決まったんですか?」と聞いたら、葛野監督は「本当にそれもあるよ」という話をしました(笑)。間違いから来るつながりというか、ここで獲ってもらえて、J3に残ることができました。本当に「つながりってすごいな」と感じたし、感謝しかないです。間違えてというのは失礼かもしれないですけど、(試合後に)あいさつに行ったことが良かったと思っています(笑)。

――そんな裏話があったとは(笑)。ただ新シーズンはリハビリからのスタートでした。

名刺を配りに行く前から、「もうこの状態で取ってくれるチームはなかなかないだろう」と絶望的な感じで名刺交換をしていました。チームにとっては負担でしかないので、入ってもすぐリハビリで、チームのキャンプも参加できない。

そんな状態で、当時は5、6月の復帰になる見込みでした。前半戦の頭は参加できないし、その状態のベテランを取りたいというチームはなかなかないだろうなと思っていました。

縁あって「リーダーシップのある選手がほしい」と葛野さんが連絡を直接くれたときから「お前にキャプテンをやってもらう」と話されました。

八戸にはチームのレジェンドで、ずっと長くやっている新井山祥智さんがいます。新井山さんとも知り合いではないですし、歴史を1番知っている人がいる中で、急に来たぽっと出の人間がキャプテンをやることは、どのチームもないと思う。

電話で「キャプテンをやってもらう」と言われたときに「即決はできないです」と返答しました。チームに合流して、キャンプを経て、自分がどれだけのことができるか分かりませんけど、「チームのことを見て判断してください」と話しました。そしてキャンプを経て、キャプテンに任命されました。

――山田選手にとって葛野監督はどのような存在ですか。

熱い人ですね。1本筋の通った人というか、熱い中にしっかりとした間違わないものを持っているというか。道が外れた選手にはしっかり声をかけるし、まっすぐ全員を引っ張っていける熱い人なんだと感じています。(主将を)任命されたからにはその期待に応えないといけないという気持ちになりました。そのシーズンは上手くいかなくて葛野監督に申し訳ないことをしてしまったんですけど…。一緒にやれて本当に良かった監督の一人です。

過酷な状況下でもプロを続ける難しさ

シーズン終盤での大ケガからの契約満了。想像を絶する状況下で山田が屈することはなかった。プロサッカー選手は「明日ケガをして引退するかもしれない」というリスクと隣り合わせの職業だ。来月36歳を迎える背番号24にプロを続ける難しさを尋ねた。

――絶望的な状況からチャンスをつかみました。プロを続けることはすごく過酷ですね。

見ている人は見ているんですね。どの監督とは言わないですけど、ある監督が「20代までは身体能力でできる。でも30歳を超えてからは人間性がないと続けられない」と言われました。ベテランでやっている選手はそう思う選手ばかりですし、人間ができてないとそこまで続けられないと感じています。続けることはなかなか難しいです。

トライアウトで名刺を配った方で、名刺交換というか、そういったことをできることが素晴らしいとSNSに書かれていました。

Jリーガーとか云々じゃなく、一人の人間として、一人の男として、家族が路頭に迷うかもしれない状況で行動しなかったら正直男じゃないというか。大黒柱なのでなんとかしないといけない。家族の支えもあったんですけど、プライドとかそんなもんじゃなくて、一人の男として生きざまを見せないといけない。

なんとしても食らい付いてサッカーを続けたい、行動しないといけない。(名刺交換は)そういうところから生まれた行動だと思います。

――今年で36歳になります。この年齢で現役プロとして続けることは並大抵ではありません。

ここまで続けた中で、いろんなことに対して「負けたくない」という気持ちが強かった。自分にも、周りにも、対戦相手にもです。いろんなところで負けたくない、負けず嫌いが勝ってここまで続けていると思います。

独り身じゃなくなってからは、自分だけのためじゃなく家族のため。年を取るにつれて、チームのため、応援してくれる人のため、そういった方向になっていまの自分があると思う。

このチームに入ってからは、応援してくれる人たちのために「自分はなにができるのか」と行動しています。自分がいざサッカーを続けられないと痛感したとき、このチームが僕を救ってくれました。このチームに対しての恩返しというところで、チームを応援してくれる、自分を応援してくれる人に対してどれだけのことができるのかと考えています。

秋田ではできなかったこと(競技以外の地域貢献やファンサービスなど)を、このチームでいろんなことをやらせてもらっています。そういったやりがいは昔よりも出てきていると感じています。

プレーに関しては昔同様負けたくない。どのチームにも負けたくない。自チームでも負けたくない。自分にも負けたくない。そういった気持ちが強いです。

このチームでやっている以上、もう一度J3のシャーレを掲げたい。その思いはまだまだ消えていません。

偉業の達成と抱く目標

今季で2季目となる八戸で、山田は主将としてチームをけん引している。優れたリーダーシップでメンバーを統率し、逆境でも前を向いてチームを鼓舞している。ピッチでは粘り強い守備で逆境を跳ねのけてきた。今季でJ3最多出場記録を更新し、チームもJ2昇格の可能性がある状況で残り2試合を戦う。

――J3最多出場記録という快挙も八戸で達成されましたね。

(今後も)J3最多出場数を増やすので、宜しくお願いします。まだまだ1位で名前をはせたいと思うので頑張ります。

――個人で快挙を達成しましたから、次はチームですね。

その(2017年に優勝した)ときは段ボールでしたね。2度目はしっかりダントツで勝って、本物(のシャーレ)を掲げられた。あれをもう一度掲げられるように頑張っています。

2017年にJ3優勝を果たした山田(右)

――今季の八戸は9位と、J2昇格の可能性が残されています。

残り2試合でまだ昇格の希望があることはいままでで最高なのかな。ここまで来てきたらタラレバなんですけど、もったいない試合を取りこぼさなければ、もっと上にいた感じもあります。

まだまだ可能性があるこの状況で、チームは前向きにここ何試合直近だとすごくいい成績(直近5試合で3勝1分1敗)です。残り2試合で自分らしさを出して勝ちを目指してやりたいです。

――サポーターにメッセージをお願いします。

どんな状況でも背中を押して、僕たちが不甲斐ない試合をしても、「次がある」と前を向かせてくれるようなポジティブな声をどんなときもかけてくれます。

僕たちは前を向いて進み続けることができた。残り2試合ですけど、これからもともに八戸のために戦ってもらえたらありがたいです。

僕たちもそれに応えられるようなプレーを見せないといけないと思っています。八戸が前を向けるようなチームにお互いしていきましょうという思いと、これからもともに戦っていきましょう。応援よろしくお願いします。

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家族のために、自身のために絶望的な状況下でもあきらめずに戦い続けたからこそ、J3最多出場記録という快挙を達成した。謙虚、実直、誠実な人柄もあってチーム内外からも信頼が厚く、確かな実力を備える八戸の主将はこのチームになくてはならない存在となった。自身を救った八戸に恩を返すまで、絶望から希望をつかんだ山田の歩みは止まらない。

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