「ずっと私をたしなめてほしかった」三回忌追悼企画“いま寂聴さんに願うこと”

寂聴さんの天台寺の法話は大人気だった(撮影:永田理恵)

2021年11月9日、99歳で逝去した瀬戸内寂聴さん。《書いた 愛した 祈った》、墓石に刻まれた言葉のように、小説家として、女性として、そして僧侶として命を燃やし尽くした寂聴さんが旅立ったことに喪失感を覚えている人も多い。

今回は三回忌を機に、交流のあった6人が、忘れられない思い出と、「いま寂聴さんといっしょにしたいこと」「いま寂聴さんにお願いしたいこと」を語ったーー。

■「“薬のような苦言”でたしなめてほしい」 エッセイスト、小説家・阿川佐和子さん(70)

「寂聴さんのことは、幼いころに父(作家の阿川弘之氏)から植え付けられた先入観で、圧倒的に男性からモテるタイプだと思い込んでいました。実際にインタビュー取材で初めてお会いしたとき、コロコロとまるくて、ニコニコのお顔やかわいらしい声など、男性にモテる要素が満載でした」

こう回想するのは阿川佐和子さん。寂聴さんとの思い出で印象に残っているのは’91年ごろ『筑紫哲也NEWS23』でアシスタントを務めていたときのこと。

「世間では女性のニュースキャスターが憧れの職業として見られていましたが、私自身はそんな立派なものでもないし、報道向きの人間じゃない。それに、ちっとも結婚できないし、自分が恵まれているとは思えなかったんです」

そんな不満を見透かすように、筑紫哲也氏とともに寂庵を訪れた阿川さんへ、寂聴さんは「あらあら、お父さまは元気?」と挨拶すると、目を見据えて「あなたはね、そこに座っているだけで、人に嫉妬されるわね」と語った。

「ハッとしました。たいして能もないのにもかかわらず、運よく親の七光りでライトの当たる場所にいられたのに、私は“恵まれていない”とウジウジしていたのです。寂聴さんの言葉が最後の決め手となって“このままじゃいけない。もっと地に足をつけなくては”と思い、’92年に『NEWS23』をやめることにしたのです。

それから1年ほどアメリカで一人で生活をしました。何か大いなる成果があったわけではありませんが、あの経験があったからこそ、いまの私があるのだと思います」

帰国後は『週刊文春』でライフワークとなる対談企画を開始し、仕事の幅も広がっていった。それから数年後の’90年代後半にもまた直感力に驚かされることに。

「某ホテルでフルコースがついた、富裕層向けのトークショーの司会を定期的に請け負っていたのですね。優雅で楽しい仕事ではあったのですが、一方で“私はこういう仕事をしたかったのだろうか”という疑問も感じていました。

そんなとき、ゲスト出演してくださった寂聴さんに『まあ、あなたはずいぶん恵まれた仕事してらっしゃるのね』と言われて……。嫌みではなくポジティブな言葉として受け止めることができて、結局、この仕事もやめることに(笑)。何か大きな決断をするとき、いつも寂聴さんの一言があるのです」

阿川さんは11月に70歳となり、節目を迎えたためか、こうした寂聴さんの言葉がよく思い出されるという。

「高齢者になれば、人から苦言を呈されることが少なくなります。それは年をとって立派になったわけではなく、年上の人を失ってしまうからです。誰からも怒られないのは快適でもあるけど、それは危ないと思うのです。

“それは違うんじゃないの”と意見してくれる存在って、すごく大事。寂聴さんには、ずっと私をたしなめてほしかったです。いまでも“薬のように、よく効く一言”が欲しくなります」

■「“すっぴん”の私の悩みを聞いてください」女優・三田佳子さん(82)

「寂聴さんの原作で、巨匠・豊田四郎監督が手がけた映画『妻と女の間』(’76年公開)に主演したとき、初めてお会いしました。

まだ30代だった私の役どころは、仏門に入る前の“瀬戸内晴美さん”を投影した四姉妹の長女でした。豊田監督からは『女として生きる』を意識して演じるように指導いただきました」

三田佳子さんと寂聴さんの出会いは半世紀近く前にさかのぼる。同作品には尼僧役として寂聴さんも出演しているという。

「撮影現場にいらしたときにご挨拶しましたが、笑顔が素敵で眩しく感じたことを覚えています」

それ以降、季節ごとの手紙のやりとりや対談をするように。さらに縁が深まったきっかけは、寂聴さんのライフワークでもあった現代語訳『源氏物語』のオーディオドラマの朗読を、三田さんが担当したことだった。

「私は54歳のときに子宮体がんが見つかったのですが、闘病を終えて1〜2年したころにご縁をいただいたんです」

三田さんは紫式部として物語の朗読を、中村橋之助(現・中村芝翫)が光源氏役を担当した。

「ほかにも沢口靖子さんが紫の上を担当したり、総勢240人もの出演者により寂聴さんの54帖に及ぶ源氏物語を読み切るというものでした。がん闘病後、初めての大仕事だったので不安もありました。でも、足かけ3年に及ぶ長丁場でしたが、ワクワクしながら寂聴さんの物語の世界に入ることができ、続けるにつれ病気のことも忘れ、CDにして115枚分の録音を終えたときは、すっかり元気になっていました」

制作発表会見は、寂聴さんと共に臨んだ。

「会見後の控室で、誰かが『オーディオドラマのCDは全巻セットで定価が34万円もする』と言ったんですね。それを聞いた寂聴さんは『あら高いわねえ。私なんて一生懸命書いているのに、本は1冊2千〜3千円くらいなのよ』と笑っていらして。そんなユーモアとかわいらしい笑顔で、場の雰囲気が一気になごみました」

寂聴さんはまるで桜のようだと三田さんは語る。

「何百年も生きてきた大木に、爛漫として咲く花で人々に華やぎを与え、そして潔く散る姿でも人を魅了するのですから」

不倫や子供との別れなど、人生の労苦を作家として作品に書き記し、瀬戸内寂聴という桜を咲かせてきたというのだ。

「いつの間にか、私も女優を始めて63年になります。その間にはつらいこともありましたが、“すべて糧になるんだ”と思えたのは、寂聴さんの生き方を見てきたからだと思います。ただ一つ心残りは、2人きりでお話ししたことがないこと。お化粧もせず、寂庵でお酒でも飲みながら、いろんな悩みを聞いてもらったりしたかったですね。きっと寂聴さんは『あなたは、そのままでいいのよ』と、笑って勇気づけてくださると思います」

■「思い出話をしながら、お酒を飲みましょう」エッセイスト・嵐山光三郎さん(81)

編集者・作家・エッセイストと、多彩な活動で知られる嵐山光三郎さん。寂聴さんとの交流は、作家と担当編集者という関係からスタートした。

「僕は37歳で月刊『太陽』の編集長になったのですが、就任から5カ月ほど後に、瀬戸内さんの西国三十三カ所巡礼を誌面で特集することにしたのです。

広島県・山野で撮影するため京都駅で瀬戸内さんと待ち合わせをしたら、脚絆・甲掛・草鞋という巡礼姿で、杖や菅笠も持っていましたから、目立って目立って。

大作家ですからグリーン車にと思っていましたが、瀬戸内さんは『30分ぐらいでしょ。立っていきましょうよ』と、新幹線のドアの前で、ずっと立っていたのです。その姿を見た人たちが、みんな瀬戸内さんを拝む。『これが巡礼というものよ。私は生き仏だから、みんな拝むのよ』そう自慢していました(笑)」

ちなみに、その寂聴さん特集号は、即日売り切れたという。

「小説以外の瀬戸内さんの功績といえば、岩手県・天台寺を立て直したことでしょうね。荒れ果ててしまったお寺を、原稿料をつぎ込んで復興したのですから、偉いですよ。私も同行して天台寺の法話を聴きましたが、本当にお上手で。

『大勢の人に話すときは、1分に1度は笑いをとらなきゃダメです。吉本興業のタレント並みの技術がいります』と、おっしゃっていました。偉ぶった話ではなくて、生きること・死ぬことを楽しく話すところが素晴らしかったです。瀬戸内さんの『言葉のお薬』で、自殺をやめた人もいるんです」

寂聴さんが救ったのは、法話を聴きに来た人々ばかりではない。

「当時、僕も出演していた『笑っていいとも!増刊号』に、瀬戸内さんが来てくれることになったのです。ところが前日になって『(東京には)行かない』と。

大麻事件の後、ショーケン(萩原健一さん)が京都・寂庵に逃げ込んだことがありました。何の付き合いもなかった彼を瀬戸内さんが匿ったのです。ショーケン自身が自分の居場所をメディアに知らせてしまったそうで、報道陣が寂庵に集まってしまって……。

中を撮影しようとしたテレビクルーを、瀬戸内さんはホースで水をかけて追い払った。そのなかにフジテレビのクルーもいたそうで、瀬戸内さんが『そんなテレビ局の番組には断じて出ない』と」

ディレクターに頼まれた嵐山さんは、東京に来て番組に出演してもらうために、寂聴さんに電話することになったのだという。

「瀬戸内さんは出家した理由について、いろいろ小説に書いていましたが、80歳のときに突然、『あれは更年期障害のせいだった』って。あれだけ自分のことをざっくばらんに話して、それでもあっけらかんとしている。そういう人は、最近はいなくなりました。

瀬戸内さんとは、またいっしょにお酒を飲みたいです。思い出話をしながら、楽しくお酒を飲んで騒ぎたいですね」

【後編】「平和の尊さを訴えて」「夢に出てきて」三回忌追悼企画“いま寂聴さんに願うこと”へ続く

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