《池上彰解説》わずか72日間で「世界を変えた」各国の革命家を突き動かしたパリ・コミューンとは?

パリ・コミューンの中心的な革命家であるルイーズ・ミッシェルの名がつけられた広場(gandhi / PIXTA)

今年開催されたラグビーワールドカップ2023、そして来年のオリンピックの開催地「フランス」。華々しいイベントの舞台として注目を集める一方で、北部のアラスでは10月13日、刃物を持った男が高校に侵入し、教師ら4人を死傷させる事件が発生。この事件を受けて、フランス国内のテロ警戒レベルは最高に引き上げられました。

また今年6月末には、警察官による移民の少年射殺事件が発生し、抗議デモが暴徒化。暴動はフランス全土に拡大しました。暴動の背景には移民が抱く経済格差への不満があったとされ、フランス社会の分断を映し出す事態になりました。

労働者の権利が広く認められ、移民を数多く受け入れるなど世界に冠たる「人権国家」として知られるフランス。そのフランスで今何が起きているのか、そもそもフランスはなぜ「人権国家」となったのか、ジャーナリスト・池上彰氏が歴史から解説します。

(#5に続く/全5回)

※この記事は池上彰氏による書籍『歴史で読み解く!世界情勢のきほん』(ポプラ新書)より一部抜粋・構成しています。

共産主義思想に影響を与えたパリ・コミューン

フランス革命は、世界の人権思想に大きな影響を与えましたが、フランスではもうひとつ、世界の共産主義運動に影響を与えた出来事がありました。それが1871年に起きた「パリ・コミューン」です。

このときフランスの皇帝はナポレオン3世。ナポレオン1世の甥(弟の息子)で、選挙で大統領に当選した後、クーデターで皇帝となります。1世と同じく各地に軍事侵攻しますが、1871年、普仏戦争(現在のドイツの原型となったプロイセンとの戦争)に敗れ、退位します。

プロイセンの命を受けてフランスに臨時政府が誕生すると、これに反対するパリ市民が3月に蜂起。世界で最初の労働者の政権を樹立します。

労働者たちは選挙を実施して議会を発足させ、労働者の代表による政治を開始します。パリ市庁舎の前には共産主義のシンボルの巨大な赤旗が掲げられました。

「コミューン」とは「共同体」「自治体」の意味ですが、ここでは革命的な共同体という意味になります。一般に考えられる三権分立ではなく、労働者から選出された代表が法律を制定して実行する行動体となりました。

コミューン自体は、臨時政府の反撃やプロイセン軍の包囲によって、わずか72日間で崩壊しますが、この間、義務教育の無償化、言論と集会の自由、労働組合の組織化などの結社の自由、婦人参政権の確立、信教の自由と政教分離の徹底、生活困窮者を対象にした生活保護制度の整備や常備軍の廃止などが進められました。

ここに掲げられた多数の目標は、パリ・コミューンの崩壊によりいったんは消滅しますが、やがて各国で実現することになります。

それを考えると、いかに先進的な取り組みであったかがわかります。

マルクスや鄧小平も影響を受けた

当時、革命家のカール・マルクスもパリに滞在していて、市民の自発的な行動や理想主義的な施策の数々を目撃しました。彼の中で、パリ・コミューンのような形態・政治体制が理想の社会主義であると考えたようです。しかし、その後、実際にロシアで社会主義革命が起きると、指導者のレーニンやスターリンは、国家権力によって国民を統制するという、マルクスが考えた理想とはかけ離れた方針を取っていくことになります。

それはともかく、フランス革命とパリ・コミューンの運動は、フランスに共産主義運動を根付かせ、やがてパリで生活した中国の鄧小平(ドンシャオピン)やベトナムのホー・チ・ミン、カンボジアのポル・ポトらが共産主義に魅せられ、祖国に帰って共産主義運動を展開していくことになります。ここでもフランスは世界を変えたのです。

若者たちの革命運動「パリ五月革命」

フランスの人権意識の高さは、ときに若者たちによる革命運動に発展します。それが1968年に起きた「パリ五月革命」です。

1960年代は、先進各国で経済が急激に発展することで社会の格差が顕在化します。その一方、戦後のベビーブームで生まれた若者たちが大学に進学するようになると、急造された大学施設は貧弱で、大学の大衆化に対応できませんでした。

当時はアメリカ軍によるベトナム戦争も激化し、ベトナムの人たちの悲惨な戦争被害のニュース映像がお茶の間に飛び込んできました。かくしてフランスやドイツ、アメリカ、日本などで改革を求めた大学生たちが立ち上がります。

彼らは「議会を通じた革命」を追求する旧来の伝統的な共産党の運動を批判し、直接行動によって革命を成し遂げようと考え、「新左翼」と呼ばれました。

学生たちはパリの学生街のカルチェ・ラタン(文化地区)と呼ばれる地区にバリケードを築いて「解放区」を作り出し、警官隊と激しい衝突を繰り返しました。

このとき日本でも、当時、中央大学や明治大学、日本大学、専修大学などがあった神田地区で学生たちが機動隊と衝突を繰り返し、「日本のカルチェ・ラタン」と称されました。

結局、フランスでは学生たちの過激な行動が地方の保守的な人々の顰蹙(ひんしゆく)を買って、保守政党が選挙で圧勝。革命は潰(つい)えます。

パリ五月革命は女性の地位向上をもたらした

しかし、このとき学生運動に集まった若者たちは、その後のフランスの文化を大きく変えていきます。それまでフランスの女性たちは、「おしとやかで夫に尽くさなければならない」「女性はスカートをはかなければならない」「正式な結婚をするまでは未婚の男女が同棲することは許されない」という意識を持っていたのですが、これを機に劇的に変化。活発で自己表現が強く、自由な生き方をしているという、いまのフランス女性のイメージが形作られていきます。

私は当時活動家だった男性にフランスでインタビューしたことがあります。彼は、女性たちが大きく意識を変えることになった出来事だったと述懐していました。

当時のフランスの女性たちが、どのような意識だったかを描く映画が『五月の花嫁』です。当時のフランスには各地に「花嫁学校」が存在し、良き妻になるべく教育をしていましたが、五月革命をきっかけに女性たちの意識と行動が変化していく様子がコミカルに描かれています。

(#5に続く)

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