出町譲(高岡市議会議員・作家)
【まとめ】
・大学の授業以上に財産になったのは世界を歩き回ったこと。
・東ヨーロッパで次々に共産党の独裁政治が倒れる現場を見た。
・チェコの群衆から市民の力を学んだ。
私は大学で政治学を専攻しました。当時はレーガン大統領。東西冷戦の構図などを勉強しました。ただ、それ以上に財産となったのは、世界を歩き回ったことです。東ヨーロッパで次々に共産党の独裁政治が倒れる現場を見たのです。
どんなに強固なしがらみ社会も、市民の怒りに火が付いたら、きっと変わるのです。市民のパワーを信じています。それでは前回の続きをお伝えします。
僕はこの革命的な雰囲気に酔いしれながら誰かと無性に話したくなった。英語の話せそうな学生らしき姿をみるとあたり構わずあたってみた。10人ほどでやっと見つかった。28歳でエンジニアをしているジョセフである。彼はなかなか巧みな英語を話す。
学生が警官に暴行を受けた11月17日から毎日デモが続いているという。今日は20万人ぐらいいると、彼は確信していた。僕たちのそばにはテレビ局のワゴン車が止めてあった。その中でつけっぱなしにされている音楽番組を指さして、彼はこう言った。
「どんなに大きいデモがあってもテレビで放送されることはまずありません。僕らが求めているのは、この状況の改善です」。
こんなやり取りをしていると、英語のできる人がどんどん集まってきた。僕をジャーナリストとでも思ったのだろう。訴えるように次々に言葉を発してくる。
ジーンズが大学出のサラリーマンの給料の3分の1もするといって共産主義の経済政策を批判するものがいれば、1968年の「プラハの春」以来、この広場にこんなに人が集まったことはない、と言い革命は近いと断言するものいた。
午後7時ごろバツラフ広場に面したホテルの2階の喫茶店に入った。窓の外を見下ろして人の数に僕は、改めて驚いた。ほぼぎっしり埋め尽くされているのである。20万人といったジョセフの言葉もあながち嘘ではない。
喫茶店の中では、外の「革命」とは無縁なように、人々がコーヒーを飲み、ワイングラスを傾け、夜のひと時を楽しんでいた。「革命」と「宴」、この落差はいったいなんなのか。と、思いきや突如、雰囲気が変わった。おもむろに人々がテーブルを離れ、窓の外に近寄った。直立不動の姿勢で、国歌を窓の外のデモの群衆とともに歌い始めたのである。彼らも「革命」としっかり連帯でいたのだ。
翌日、フサーク大統領が辞任した。無血革命が成功したのである。
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ベルリンの壁が壊された次の日、11月10日、時事通信ロンドン支局の越後さんとパブで飲んでいた。ロンドンにきて10日目、それまで仮住まいだったユースホステルを出てやっとアパートを見つけた。そんな報告をしていると、越後さんはきつい口調で僕に言った。
「こんな歴史的な事件が起きているとき、どうしてロンドンでのんびりしているんだ。」
翌日、僕はロンドン中の旅行会社をかけずりまわった。、11日発のベルリン行きのチケットを手に入れた。こうして12月4日までベルリン、プラハ、ブタペストと回ってきた。100年に1度あるかないかの東欧で繰り広げられた「祭り」。越後さんの言葉がなかったら、僕はその「見物人」になる時期を見逃し、今でも後悔していたような気がする。
と同時に、最近こんなことも思うようになった。社員である越後さんは、なんの拘束もないそのときの僕の「自由」を僕自身より、深く尊いものとして認識していたのではないだろうか。明日何やろうと、漂白できる瞬間は、そんなに多く人生にあるものではない。
1年目の僕が言うのは生意気なようだが、4月までの貴重な「自由時間」をじっくり味わってほしい。
トップ写真:50万人が出席したレトナ平原で市民フォーラムが主催した集会(1989年11月25日チェコ・プラハ)出典:Langevin Jacques / Getty Images