世紀の極悪殺人者も無罪に…普段は健全でも「心神喪失」が適用されてしまう理不尽

人の人生を台無しにする殺人犯も「精神鑑定」の結果いかんで、望まぬ結果になることも(bst2012 / PIXTA)

一国の最高責任者の殺人を計画、実行する才覚のある男が「心神喪失」を理由に極刑を免れるとしたら…。世論は、とうていに素直に受け入れることはできないだろう。

「本当に心神喪失しているのだろうか」「心身を喪失していてもやったことはひどすぎるではないか」…。事件が重大であればあるほど、”免罪”に対するアレルギーは強まっていく。

日本でも猟奇的殺人の犯人に対し、「精神鑑定」がまるでセットのようにいつも必要性が訴えられ、結果によっては無罪放免となるケースもある。

人を殺すことは悪いことである。だれも異論はないだろう。それが極悪非道な凶悪犯罪であればなおさらだ。

殺人は、いつの時代も小説や映画ではテーマとして引っ張りだこだ。超えてはいけない一線を超える人間の心理に、多くの人が興味を持たずにはいられないからだろう。

そうした感性による各々による殺しの分析があるとして、実際に罪として裁く際には、法律によって適正な判断がなされる。「裁判官がやることだ」、と他人事に捉えてはいけない。裁判員制度(2009年5月~)では、一部重大な犯罪において、国民が裁判員として有罪か無罪かを審理する。

「自分事」と考えたとき、より正確に殺人の背景を知り、殺人にも”種類”があることを少しは学びたくならないだろうか。そうした教材はないに等しいが、イギリスの現役弁護士、ケイト・モーガンが、殺人という罪が規定されゆくプロセスを実際の犯罪を交え、興味深くまとめている。

今回はその中から、しばし重大犯罪で極刑の前に立ちはだかる「心神喪失」について、その最初のケースとなった事例を材料に考察する。

(#3/全4回)

※この記事はケイト・モーガン氏による書籍『殺人者たちの「罪」と「罰」』(近藤隆文・古森科子訳、草思社)より一部抜粋・構成しています。

「狂気の殺人者」と「心神喪失」の境目はどこにあるのか

オールド・ベイリーで開かれた公判で、マクノートンは心神喪失を訴えた。訴追側は彼が精神的に病んでいることを、被害妄想を証拠として認めざるをえなかった。さもなければ、厄介な立場に置かれていただろう。政府が自分に対して陰謀を企てているというマクノートンの信念は良くて妥当、悪くても充分考えられると主張するはめになっていたからだ。

そこで争点となったのは、マクノートンの苦悩の性質と程度だった。訴追側は、彼の妄想だけでは完全な心神喪失であることを証明して無罪を確保するには不充分だと主張した。妄想が心におよぼした影響は、善悪の判断能力を失わせるほどでなくてはならなかった。

「ふだんは健全」の場合の部分的心神喪失をどうみるか

マクノートンの弁護団は事実上、部分的な心神喪失を謀殺の抗弁として認めるべきだと主張した。ふだんの生活における精神の健全さは関係なく、殺害時に妄想の影響下で行動していたとみなされなければならない。その裏づけとして、弁護団は殺害行為そのものにおける彼の挙動に言及した。

目撃者を前にロンドン有数のにぎやかな通りでドラモンドを撃つと、その場で逮捕されるのを待っていた。とても計画的な殺人者の手口とはいえず、 もしそうならもっと目立たない場所と時間を選んだはずである。

「異常執着」と断定した医師の証言が決定打となり、無罪に

マクノートンを診察した医師たちは、その行動をモノマニアの一種、すなわち特定の問題、 主題、人物への異常な執着だと断定した。 その患者はほぼすべての主題について理性的で一貫性があり、どこから見ても正気だが、特定の執着については別で、まったく、もしくはほとんど制御できない。

マクノートンの医師たちの証言には重みがあり、訴追者は判事の指示を受けて訴訟を取り下げた。陪審は心神喪失を理由に無罪の評決を下す以外に選択肢はなかった。マクノートンは命令により、ベスレム王立病院に無期限で収容される。

才覚、実行力があっても「心神喪失」のなぜ

この無罪判決は社会のあらゆる階層を騒然とさせた。マクノートンのような、商売を繁盛させることができ、政府の最高責任者の殺人を計画、実行する才覚のあった男が心神喪失を理由に成功したら弁護の限界はどこにあるのだろうか?

そうした懸念から、この事件は貴族院(イギリスの議会を構成する議院 のひとつ。上院に相当)でも審議され、提起された法的要素についてさらに検討が加えられた。といっても判決に対する上訴ではない。当時それは不可能だった。

ただし、 マクノートンの裁判で被告人が実際に心神喪失であると法廷が説得された経緯をめぐって、あまりにも論争と混乱が広がった。そのため、政府は法律貴族 [控訴裁判所の構成員に任命された上院議員。 常任上訴裁判官〕に依頼し、法律をさらに明確にして囚人が正気か否かを判定する法的基準を設定することにした。

一見して、マクノートンは完全に正気を失っていたとはいえない。彼には意識清明な期間が充分あって事業を成功させていたし、ドラモンド殺害に先立って治療を受けたことも施設に入ったこともなかった。

イングランド法では一時的または部分的な心神喪失が認められていないにもかかわらず、心神喪失とみなされ、したがって謀殺の罪には問われないというのは正しいのだろうか?

貴族院は、被告人がきわめて特殊な基準を満たしている場合は、正しいとして納得した。彼らが提示した心神喪失に関する「ルール」は「マクノートン準則」として歴史に残り、今日でもイングランドの裁判所だけでなく、英連邦諸国や米国などの国際的な管轄区域でも適用されている。

心神喪失を理由に、行動の結果に対する責任が問われない4つの条件

貴族院はこう明言した。出発点はすべての被告人が正気であるとの推定でなければならない。 ただし、この推定は被告人が自身の心神喪失の充分な証拠を提示できれば、反駁(反論)できる。そのためには、以下の基準を満たさなければならない。

・心神喪失を根拠に抗弁を成立させるには、その行為を犯している時点で被告人が精神の病のために理性を欠いた状態にあり自身の行為の本質と特性を知らなかったこと
・知っていたとしても、悪い行いをしているとの自覚はなかったことが明確に証明されなければならない

つまり、「マクノートン準則」とはかなり大げさな名称で、煎じ詰めれば心神喪失を理由に、自分の行動の結果に対する責任がないことを裁判所に納得させるにあたり、被告人が証明しなければならない4つの重要なポイントのことだ。

第一に、被告人は基礎となる医学的疾患(「精神の病」)を立証し、第二に、この疾患が精神的プロセスや理解力に影響を与えていること(「理性を欠いた状態」)を証明しなければならない。

裁判所が以上の2点に納得した場合、心神喪失の訴えを成功させるには、あと2つハードルがある。被告人は犯行当時、自分が何をしているか(「行為の本質と特性」)を理解していなかったこと。あるいは物理的に何をしているかは自覚していても、その行為が禁止されている(「悪い行いをしている」)とは認識していなかったことだ。

(#4へ続く)

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