GACKT 初自伝『自白』で明かしていた「急逝した元メンバーへの悔恨」

4年ぶりの主演映画第II弾『翔んで埼玉~琵琶湖より愛をこめて~』(11月23日公開)でも話題のGACKT(50)。彼の20年ぶりの続編自伝となる『自白II』(光文社)が先月22日に刊行された。もともと初の自伝『自白』が発売されたのは03年9月のこと。「神秘のアーティストが初めて明かした謎の半生」が反響を呼び、累計10万部を突破するベストセラーとなった。

03年8月5日発売号の本誌インタビューでは、1999年について振り返っている。1月に彼はMALICE MIZER(以下、マリスミゼル)を脱退。6月に同バンドのドラムス・Kamiさん(享年27)がくも膜下出血で亡くなっている。自伝『自白』にも収録された当時の“自白”を再編集して公開する――。

夏に入る直前だった。撮影中にいきなり気分が悪くなった。目眩がして、立っていられない。直感的に思った。身内に何かあったんだ……。

僕は身内全員にすぐに電話を入れた。皆、無事。何事もなかった。でも、モヤモヤした気分は少しも消えない。

身内が亡くなるとき、いつも起きる現象だった。だから、また誰かが死んだんじゃないかという不安があった。でも、誰なのかはわからない。ただ、ただ、苦しい。呼吸が乱れて息苦しく、普通に生活ができないレベルになってしまう。

虫の知らせのようなものだと思う。そのあと、僕はマリスミゼルのメンバーとつながりのある人間に電話を入れた。

メンバーは無事か? という僕の切羽詰まった問いに対して、答えは「今日、会いましたけど、元気でしたよ」というものだった。

それでも不安は消えなかった。もっとマリスに近い人物にも会いに行った。夜中だったが、メンバーが無事かどうかをすぐに確認してくれると、言ってくれた。でも、結局、連絡は来なかった。

それから1週間後だった。Kamiの死が公表された。

後でわかったことだけど、僕の気分が悪くなったのは、Kamiが亡くなった直後のことだったらしい。

Kamiの死は、結局、回り回って友達から聞くことになった。すでに、葬儀も終わっていた。

ちょうどレコーディングの最中で、僕は、スタジオにこもっていた。全く何も手につかない。でも、やらなきゃいけない。自分にそう言い聞かせていた。やらなきゃおかしくなりそうで……。

すごい後悔が残っている。

なぜ、僕は直接、Kamiに電話をしなかったんだろう。間に人を介するのではなく、なぜ直接、Kamiと話そうとしなかったんだろう。

僕はまだ、大人になりきれていなかった。大人になるということは、たとえ、感情をむき出しにしてぶつかりあっても、そのあとで、相手を受け入れることができるかどうかだと思う。子供はぶつけるだけで終わり。そこで、関係は途切れてしまう。

でも大人であれば、感情の嵐が過ぎ去ったあとで、冷静に事態を見つめ、自分自身を客観視することで、相手を受け入れる態勢がとれるはずだ。

あのころの僕には、それができなかった。都合のいい解釈を見つけ、本気でぶつかり合うことをしなかった。そこに、相手に対する遠慮があった。

それ以前にも、イヤな予感は何回かあった。そのたびに、僕は、Kamiとの間に入っている人と連絡をとったが、とうとうKamiに直接、電話をすることはなかった。

互いに子供っぽい意地と遠慮で、僕らは電話ができなかったと、今では思う。

でも、もし、すぐに電話をしていたら……。もしかしたら、僕にも何かできたのではないだろうか。

すごくおこがましいかもしれない。もう、取り返しのつかないことだ。

でも、もし、あのとき、直接、話ができていたら……。

■僕が頑張ることが、彼の生きた証しになる。

その後、Kamiの実家に行ったんだ。最初は、彼の誕生日、2月1日だった。

Kamiに会いたいと思った。Kamiの墓に行きたい。僕は葬儀にも出られなかったから、手を合わせたかったし、とにかく会いたかったんだ。

実家のある町は知っていたけれど、家がどこかは全く知らない。だいたいこのあたりに住んでいるということだけ聞いて、僕は車を走らせた。

そして、近所の……といっても、田舎だから、かなり広い町だけれど、あちこちの家のインタホンを押し、人を探しているんです。こういう人を知りませんか? このあたりに住んでいると聞いたんですけど。などと、聞いて回った。

朝、東京を発ち、昼ごろ、茨城に着いて、ずっと探し回った。ようやく住所がわかって家にたどり着いたのが夜7時ごろ。

玄関を開けたとき、わかりますか? と、聞いていた。お父さんもお母さんも、ライブに来たことがあったから、僕のことは、すぐわかった。

よく来てくれました。とにかくあがってください。

そう言って、家の中に招き入れてくれた。

家族みんなで夕食に出て、鍋をつつきながら、お父さんもお母さんも、いろんな話をしてくれた。僕の知らなかった子供のころのKamiの話もいろいろ聞いた。そして、こう言ってくれたんだ。

「まだ、忘れられないけれど仲間が頑張ってくれることが、あの子が生きた証しだから」

それを聞いて、とても救われた気がした。僕が頑張ることが、彼の生きた証しになる。

以来毎年、僕はKamiの誕生日と命日には、彼の実家へ顔を出している。

「いつでも遊びにおいで」というご両親の言葉に甘えて。

最初の年は、大勢、お墓参りに来てくれていた。命日にしても、誕生日にしても。あれから4年、どんどん人が来なくなった……。

来たから、どうこうということじゃない。お墓参りをすれば、Kamiが喜ぶというわけじゃないんだろう。でも、僕には皆がどんどん……、あいつのことを忘れていくように思えて……それが、すごく辛い……。

もっと頻繁に、彼の墓へ行けるといいんだけど、結局、命日のときと誕生日のときになってしまっている。

でも、そのたびに、お父さんもお母さんも歓迎してくれて、今では、自分の親のような感覚なんだ。ご両親のほうも、僕を実の子供のように思って、僕にKamiの姿をダブらせているように思う。

僕は今もずっと、Kamiの果たせなかった夢を追い続けている。それがKamiがこの世に存在し、生きた証しだ。

Kamiは今も僕の中に生きている――。

GACKTは今年2月にも、Kamiさんの墓前で手をあわせる姿をインスタにあげていた。今回刊行された続編自伝『自白II』では波瀾万丈のアーティスト人生を歩んできた彼が50歳となった今、20年の沈黙を破って後半生を振り返っている。遺書を20通書いた活動休止期間の苦闘、主演映画『翔んで埼玉』の舞台裏、個人71連勝中のバラエティ番組『芸能人格付けチェック!』の葛藤、先輩アーティストたちとの華麗なる交流録、実業家として億単位の負債、最後の恋など仕事と私生活を自ら明かしている。

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