<インタビュー>元日本代表FW宇佐美貴史、31歳となったガンバ大阪の「至宝」が迎えた転換期

今季からクラブ史上初のスペイン人指揮官ダニエル・ポヤトス監督を迎えたガンバ大阪。

開幕14戦1勝で最下位に沈みながら、第15節からは10戦8勝1分1敗と快進撃を続けたのち、第25節からは9戦未勝利が続き6連敗。

最終節を16位で迎えたチームと共に、今季から主将を担う元日本代表FW宇佐美貴史も苦しんだ。3年連続の残留争いとなったチームで、31歳となった「至宝」も転換期を迎えている―。

※第24節の湘南戦で決勝点となるPKを決めて雄叫びを上げる宇佐美貴史。今季から主将を務め、背番号も7番に変更した(写真提供:ガンバ大阪)

明治安田生命J1リーグ第33節、敵地でサンフレッチェ広島と対戦したG大阪は本拠地移転でエディオンスタジアム広島最後の開催試合に意気込む相手に0-3の完敗。

26本のシュートを浴び、自軍は僅か3本の貧打に終わるという衝撃的な完敗を喫したものの、他会場の結果により1試合を残してJ1残留が決定した。

ポヤトス監督が主導する立ち位置の変化によって数的・位置的・質的(個の能力)な優位性を活かすスペイン流のポジショナルプレーを取り入れる“改革イヤー”は浮き沈みの激しいシーズンとなった。

昨年3月に右足アキレス腱を断裂し、約7カ月後に戦列復帰した宇佐美にとっても、キャリア初の長期離脱明けで悪戦苦闘した日々だった。

「もうアキレス腱が痛くなることはないのですが、患部の周辺が2cmほど細くなっています。左足と比べると全然違いますね。ふくらはぎの筋力がなかなか戻らないので、そこの難しさを感じているのは事実です」

主将、7番、インテリオール

今季の宇佐美はジュニアユース時代(中学2年時)以来、プロキャリア初の主将を担い、背番号もかつてG大阪に在籍し、現在もJリーグと日本代表で最多出場記録をもつレジェンドMF遠藤保仁(ジュビロ磐田)が背負った「7番」に変更して迎えた。

「キャプテンとして、チームのみんなが求めるようなリーダーシップを発揮できたかどうかは分かりません。もちろん、チームのことを考えて、いろんな選手のことも考えて自分なりにアクションはとって来たのですが、結果として不甲斐ないシーズンになってしまったと思います」

ポジションもスペイン語で“インテリオール”と呼ばれるインサイドハーフにコンバート。改革に挑むチームを象徴するように、エースも覚悟を決めて挑んだシーズンだった。

今季のG大阪が多く採用して来た〔4-3-3〕は守備時に両サイドのウイングが引いて、インテリオールの1人がセンターフォワードと共にプレスをかけに前に出る〔4-4-2]に可変する。ただ、3冠達成時など従来のG大阪が採用してきた〔4-4-2〕とは違うようだ。

「インテリオールの役割については、ボールに触る回数が増えて、後ろ(DF)とも前(FW)とも繋がれるので面白いと思って取り組みました。

ただ、相手がボールを持っているときはトップ下のような位置をとるんですが、チーム全体の守備において、そこのタスクが1番大きく、抑えるポイントが多過ぎて大変でした。

松さん(松田浩前監督)の時の〔4-4-2〕とは違いますし、細かい部分で違いもあります。また、自分の役割自体にも違いがあるので、難しさを感じていました」

※今季5得点に止まっている宇佐美だが、柏との開幕戦で披露したドリブルからの一撃など華麗なゴールが多い。

それでも宇佐美は敵地で迎えた柏レイソルとの開幕戦からバイタルエリアの密集地帯を繊細なボールタッチで突破し、芸塾的なゴールを挙げた。第4節の広島戦でも得意の左45度から“らしい”ゴールを記録するなど、宇佐美らしさを発揮。

チームも序盤戦は結果が伴わなかったものの、ボール支配率で相手を上回り、20本以上のシュートを放つなど、「攻撃サッカーのガンバが帰って来た」というポジティヴな印象を残す試合も多かった。

本拠地パナソニックスタジアム吹田に横浜FCを迎えた第9節はその象徴だ。28本のシュートを放ったものの、この日もゴールを挙げていた宇佐美のシュートがポストやクロスバーに合計3度も跳ね返されて1-1の引き分けに終わった。

「シーズンを戦う中でターニングポイントになった試合や場面はいくつかあって、その横浜FC戦もそうですね。今季に限ってはそういうポイントとなる試合でことごとく数字につなげられませんでした。

もちろん、もし1つでも入っていれば、1つでも勝ち切れていればと思うことはありますが、それも自分の力不足が招いた結果です」

開幕14戦1勝で最下位に沈み、宇佐美自身は4試合連続の警告を受けてキャリア初の出場停止となった敵地での第15節・アルビレックス新潟戦。5連敗中だったチームは8試合ぶりの勝利を挙げる。

その後、リーグに限っては8戦7勝1分の無敗街道を歩むチームの中で、宇佐美は先発から外れ、起用されるポジションも変化していった。

宇佐美のポテンシャルを最大限発揮できるポジションは?

弾道が鋭く球筋の速いミドルシュート、ワンステップで局面を劇的に変えるサイドチェンジやクロス、アンドレス・イニエスタのような内股の素早いターン、緩急自在で多彩なフェイントも兼ね備えるドリブルなど、宇佐美のプレーからは「柔」も「剛」も感じさせられる。

2トップの一角、1トップ、トップ下、ウイング、サイドMF、インサイドMF…。本人も「右サイドでも左サイドでも変わらない」と言うように、その都度、起用されるポジションに適応してきた。しかし、その溢れんばかりの才能を活かす最適解は見つかっていない。

そんな宇佐美にとって、ヒントになりそうな元同僚が2人いる。

1人は2011-2012シーズンに過ごしたバイエルン・ミュンヘン時代のオーストリア代表MFダビド・アラバ(現レアル・マドリー)。シーズン当初はオランダ代表アリエン・ロッベンとフランス代表フランク・リベリーが担う両ウイングのポジションを宇佐美と争っていた。

「彼とは同い年なので、コミュニケーションをよくとっていました。リベリーとも仲が良く、彼はまだレギュラーではない時期からチームの誰からも可愛がられている存在でした」

シーズン後半戦に入ると、アラバは左サイドバックにコンバートされて定位置を掴み、UEFAチャンピオンズリーグ決勝に進出するチームで日増しに成長を遂げていった。

「当時からフィジカル的にも優れていて、左利きでいろんなポジションをこなせる器用な選手でした。今は左SBやセンターバック、ボランチなど、FW以外なら全部やっていますよね。

左SBへのコンバートも『彼ならやれるだろう』という感覚は僕だけでなく、当時のバイエルンの選手やコーチングスタッフ全員がもっていたと思います。さすがにCBをやっているのは驚きですけどね」

その後のアラバは当代屈指の名将ジョゼップ・グアルディオラ(現マンチェスター・シティ監督)の指揮下で試合中にSBとインサイドMF、あるいはCBとインサイドMFを戦術的に行き来する「偽SB」や「偽インテリオール」のタスクを与えられ、ワールドクラスな多機能型プレーヤーへと成熟。

全員攻撃・全員守備が当たり前で、ポジションレスとなった現代サッカー。その模範的選手として、彼の右に出る者はいない。

もう1人は2012-2013シーズンにホッフェンハイムで同僚だったブラジル人FWロベルト・フィルミーノ(現アル・アハリ)。

2015年から8年間プレーしたリヴァプールで「9.5番」を確立した印象が強いが、当時21歳の彼はトップ下や右サイドでプレーするMF。現在は献身性を高く評価されるが、当時は左サイドで絶好の位置に走り込んだ宇佐美にもパスを出さないような利己的なプレーを選択することも多かった。

「当時から技術的に上手かったですよ。今とは少しプレースタイルは違いました。

ボールを受けるとコネて、コネて、ドリブルで突っかける。如何にもブラジル人の10番タイプ(トップ下)という感じでした。パスが来ない、出さないというのは南米出身の若手選手で、それがポジションを争う選手なら当然だと思いますね。

リヴァプールに移籍してからは自分で仕掛けるよりも周りを活かすスタイルに変わっていったように思います。

それこそ、ポジションは『9番(ストライカー)』ですけど、10番のような役割ですね。ポストワークで後方の選手を前向きにして、チーム全体の推進力を上げていくようなプレーが多くなったように見ています」

宇佐美とアラバは同い年で、1歳年上のフィルミーノとも同世代。彼らはポジションや役割も変えているが、どのポジションでプレーしても自分が出せる。

「本職のCBのようにプレーするアラバ」ではなく、「アラバがCBでプレーする意味」を自らが汲み取ることが大切だ。

ナーゲルスマンの指導を受けた初の日本人?

そして、そのホッフェンハイムでは現在“時の人”となっている人物ともトレーニングを積んでいた。今年9月にホームで日本代表に1-4と惨敗したドイツ代表の新指揮官に抜擢された、ユリアン・ナーゲルスマンだ。

2016年2月、ドイツ・ブンデスリーガ史上最年少の28歳でホッフェンハイムの監督に就任したナーゲルスマンは、崖っぷちだったチームを建て直して残留に導いただけでなく、翌季からは4位、3位とCL出場権を獲得する攻撃的な魅力溢れるチームを作り上げた。

その後もRBライプツィヒやバイエルンの指揮官にも抜擢され、36歳にしてW杯優勝4度を数える母国の代表監督に指名されている。

「ホッフェンハイムの監督に就任するというニュースを見た時に、『あっ、いたいた。あの人だ!』と思いました。僕は彼がドイツ国内で将来を嘱望されている指導者だとは知らなかったので、ビックリしました。

当時はアシスタントコーチでしたけど、選手が足りない時はロンド(鳥かご、パス回し)に入って一緒にトレーニングもしました。分析の仕事などもこなしながら、それこそ“何でも屋さん”のように選手に近い距離で指導されていましたね。

当時25歳だったと思うんですけど、彼よりも年上の選手も多かったですし、みんなからは“ユリ、ユリ”と呼ばれていました。僕も呼んでいたんだと思います(笑)」

ロシアW杯で見た“世界”の第一線

育成年代の頃から年代別日本代表のエースとして活躍してきた宇佐美。

2009年には『FIFA U-17W杯』でブラジルのネイマールやフィリペ・コウチーニョ、スイスのグラニト・ジャカらとも対戦。そして、19歳にしてドイツの絶対王者バイエルンへ移籍するなど、10代から代表でもクラブでも世界の第一線を経験してきた。

そして、26歳となった宇佐美は『FIFAワールドカップ2018ロシア』に出場。サッカー選手なら誰もが憧れる檜舞台に立った。

しかし、本大会開幕の2カ月前、アジア予選突破を決めたヴァヒド・ハリルホジッチ監督が電撃解任。後任には技術委員長を務めていた西野朗氏が就任するという物議を醸す人事が発表された。

宇佐美にとってハリル氏は自身を代表デビューに導いた恩師であり、西野氏もまたG大阪でプロデビューを飾った当時の指揮官だった。

「複雑でしたよ。僕らも何が起きているのか、全く分かっていませんでしたから。

西野さんは当時の技術委員長でしたから、代表の遠征に招集されるたびに顔を合わせていましたけど、まさか監督と選手の関係になるとは思いませんでした。僕はその流れに付いていくのに必死でしたね」

本大会ではベスト16に進出する日本代表チームにあって、「11番」を着た宇佐美は第2戦のセネガル戦(△2-2)で途中出場してW杯デビュー。第3戦のポーランド戦では先発出場するも65分で交代している。

ピッチを退いて約10分後には0-1で負けている状況ながら、日本はフェアプレーポイントで決勝トーナメント進出に勝ち上がれる状況を察知し、攻撃に出ずに後方でパスを回し続ける大胆な戦略に打って出た。

G大阪時代は超攻撃的なサッカーで鳴らした指揮官の選択に感慨深い想いもあった。

「ポーランド戦に関しては決勝Tに勝ち上がる術があるならば、あの選択で良かったと思います。もし攻撃に転じて失点して、結果的にグループステージ敗退となると、そういう人たちはそこに対して批判すると思いますし、何か言うキッカケを探しているだけだと思うので。

自分たちで『決勝Tに行けた』という想いを共有できていましたし、それを強調して、『メディアの声など気にしなくて良い』と言ってくれる先輩もいました。チームとして一丸となってやれたと思います」

ラウンド16のベルギー戦では日本が2点を先行する展開から、2-3と大逆転負けを喫することになったが、ベンチで切り札として準備していた宇佐美の心境とは?

「ベルギー戦に関しては、大会を通してガチっと固まった最強メンバーで、出るべき選手が全員出たと思います。もちろん、僕もベンチから見ていて自分が入っていく準備もしていましたけど、目まぐるしく変わる戦況を見ながら、『どういうプレーを選択したら良いのか?難しいだろうな』と感じていました。

相手の監督(現ポルトガル代表監督ロベルト・マルティネス)も決断が速く、マルアン・フェライニやナセル・シャドリといった長身の選手を次々に投入してきて、日本のDFラインで最も身長の低い長友(佑都)さんのところで勝負させる。相手の僕らから見ても狙いが明確でしたし、嫌な策を打ってくるなと思いました。

ベルギーもカウンターが凄く鋭いチームですし、しかも2-1になってからは完全に流れもベルギーでした。西野さんが1度ガチっと守備を固めるのか?追加点を取りにいくのか?すごく考えている表情をされていたので、サブメンバーの僕らも難しかったですけど、西野さんが1番難しい選択を迫られていたと思います。何とかチカラになりたかったです」

31歳となったエースが迎えた転換期

クラブでも代表でも世界の第一線で戦ってきた宇佐美だが、31歳はプロサッカー選手にとって分岐点を迎える年齢だ。しかも、彼は昨年にアキレス腱断裂を伴っているため、困難を極めるのは当然だろう。

日本がW杯初出場を果たした1998年のフランス大会で直前にメンバー外を告げられた“キング”三浦知良(オリヴェイレンセ)も当時31歳。所属するヴェルディ川崎(当時)でポジションを固定されず、FWではなく中盤でプレーする時間も長く苦戦していた。

同様にヴィッセル神戸で守備面でも奔走したFW大久保嘉人氏が、その神戸から戦力外を突きつけられたのも31歳になる半年前だった。

1998年に左膝十字靭帯を断裂したイタリア代表FWアレッサンドロ・デル・ピエロ氏は、半年以上の長期離脱を経て翌季に復帰。しかし、当時25歳だった彼は1年間流れの中から1度もゴールを奪えずに終わったという例もある。

それでも彼らは30代で二桁ゴールを連発して復活。カズは56歳となった現在も現役を続け、大久保は川崎フロンターレに移籍して以降31歳から3年連続J1得点王に輝き、デル・ピエロも33歳でセリエA得点王を獲得。

チャンスメイクにも優れ、典型的なストライカータイプではない彼らだが、苦境を乗り越えて30代でも新境地を開いた。

Jリーグの歴史に残るカメルーン代表FWパトリック・エムボマによる180度回転リフティングボレーによる華麗なゴールを、「ゴール裏の最前列で見た」生粋のガンバサポーターである宇佐美。そのエムボマやアラウージョ、マグノ・アウベスなど、G大阪のエースは外国籍FWが歴任して来た印象が強い。

「今はエースと呼ばれるようなゴールの数を積み上げていきたい一心」と謙遜する宇佐美だが、自ら仕掛けてゴールが奪える本格派ストライカーの系譜に彼は連なる選手だ。

下部組織出身選手がエースを担うことは希少価値が高い。ドイツ時代も含めて彼のファンには子供が多いこともそれを裏付ける。

「チームとしても個人としても不甲斐ないシーズンにしてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいです。足を引っ張ってしまった想いもあります。

それでも応援してくれる、期待してくれるファン・サポーターの方々に、ここからまた伸びていく姿を見せ、喜びを与えられるようにガンバって行きたいと思います」

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最終節に迎えるのは、前節にクラブ史上初のJ1リーグ制覇を成し遂げた神戸。

宇佐美にとってはバイエルン移籍前のラストマッチや、2013年にドイツから復帰後の再デビュー戦でゴールを挙げて、「ここから再び黄金時代を築いていきたい」と宣言し、翌年に3冠達成を牽引するまでに繋がった相性の良い相手。宇佐美のゴールに期待したい!

【プロフィール】宇佐美貴史(うさみ たかし)

1992年5月6日生(31歳)

178cm69kg/ポジションFW・MF/京都府長岡京市出身

生後10カ月で自らオムツを脱いでボールを蹴り始めた逸話をもつ。長岡京SSSでサッカーを始め、中学からG大阪ジュニアユースに加入。ユースを経て、高校2年進級時にトップチーム昇格。2年目の2010年に定位置を掴み7ゴールを挙げ、『Jリーグベストヤングプレーヤー賞』を受賞。2011年夏にはドイツの強豪バイエルンへ期限付き移籍。ホッフェンハイムへの期限付き移籍を経て、2013年夏にJ2に降格していたG大阪に復帰。「J2で通用しないなら引退する」と不退転の決意で挑み、僅か18試合の出場ながら得点ランク2位の19得点を挙げてJ2優勝・J1昇格に導いた。翌2014年にはエースとしてJ1リーグとヤマザキナビスコ杯(現YBCルヴァン杯)、天皇杯の3冠獲得を牽引。2015年にはJ1でキャリアハイの19得点。2016年夏にドイツへ再挑戦し、アウクスブルクとデュセルドルフでプレー。2019年夏に再びG大阪に復帰して現在に至る。育成年代から各年代別代表のエースを担い、2015年3月にデビューしたフル代表では、これまで27試合出場3ゴール。

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