ぽっちゃりの体形をネタに、自虐キャラの本音「そないせな居場所がなくなってしまう」

自分の体形が嫌い。コンプレックスを笑いのネタにしながら、ずっと生きてきた=神戸市内

 私はぽっちゃりしていて、すごくコンプレックスがあります。自分のことは過小評価しかできず、容姿にまつわることはまず自分で笑いのネタにします。(ルッキズムを巡るアンケートへの回答)

 神戸市に住む看護師の朝倉めぐみさん(仮名、47歳)は、ことあるごとに自身の体形を笑いに変えてきた。押し付けがましくはならないように、軽いノリで言う。

 「また太ったわ」「ちょっと最近、食べ過ぎてもうたわ」「あんた今、私のこと太ってると思ったやろ!」

 例えば集合写真を撮るとき、ささっと後方を陣取り、周囲に呼びかける。「みんな、前に行ってよ。私ができるだけ小さく映るように、遠近法やから!」

 芸能人の観月ありささんに似ていると友人に言われたことがある。「太った」という前置きが添えられていたけれど、そこは聞こえていないことにして褒め言葉だと受け取った。「走るよりも転がった方が早いぞ」と笑われたって、傷つくことはない。

 「基本的には明るく楽しく。みんなに仲良くしてもらって、笑ってもらえて。それでええか、みたいなね。そうやって笑ってもらってるうちが華ちゃいますか」

 

■はだけた浴衣

 

 笑いに対する関西人ならではのストイックさ、というわけではない。考えるより先に口をつく自虐ネタは、心を守るための予防線であって、コンプレックスの裏返しのようなもの。

 大好きな音楽グループのライブやイベントによく出向く。いわゆる「推し活」。グループのメンバーは全員男性で、会場に集まるファンは女性が多い。

 ある夏、浴衣で参加するイベントがあった。浴衣がジャストサイズなせいか、おのずとはだけてしまう。すかさずそばにいるファン仲間の方を向いて「小さいの着てるから、はだけてまうわ!」とおどけてみせる。笑ってくれているのを見ると、ほっとする。

 ステージへと黄色い声援を送りながら、同時に「私、こんな体形やのに」という劣等感のような感情がつきまとう。周囲に「うわ、あの人、あんな体形やのに小さい浴衣着て」と思われていないか、不安になる。だから、先手を打つ。

 「自分で先に言っておけば、それほどの悪口にはならへんかなって。影で思われたり、言われたりする方がつらいから」

 

■もっとも傷ついた一言

 これまで、おそらく15種類くらいのダイエットを試してきた。「女の子なのに太っているのは、はずかしいこと」との思いはいつまでも拭えない。

 昔、思いを寄せていた人に言われたことがある。「あと10キロやせたらつきあったるわ」。これまでの人生で、もっとも傷ついた一言だ。

 「体形があかんって言われているようなもんやから。今の私、やっぱりあかんのやって…」

 たしか、自虐するようになったのは中学生のころ。当時は友だちが笑ってくれると純粋にうれしかった。

 「周りは細くてきれいな子ばかりで。だから私は、『あいつおもろいやんけ』と言ってもらってなんぼかなって」

 今、冷静になって振り返ると、こうも思う。

 「そうするしかなかったというか。そうやって、自分の価値をつくっていたのかもしれませんね」

■自虐キャラに思うこと

 なんとかコンプレックスを笑いに昇華しながら、心と居場所を守ってきた。

 一つ実感できているのは、交友関係には恵まれてきたということ。悪意を持って体形をからかわれたり、いじめられたりすることはない。自虐ネタを交えながら笑い合える友人は、かけがえのない存在だ。

 想像してみる。もし、ルッキズムが存在しない世界に生まれていたとしたら。

 「そういう世の中なら、こんなおもしろキャラにはなってなかったかもしれませんね」と笑ってすぐ、思い直したように言葉をつないだ。

 「でもやっぱり、どんな社会や時代であっても、自分はこういうキャラなのかも。そんな自分は、それほど嫌いではないのかもしれません」

 自他のまなざしの間で揺れながら、「自分は自分でおってもええんかな」と思える瞬間もあれば、いつまでたっても鏡に映る姿には嫌気が差す。どこか矛盾するようでいて、きっとどちらも本音なのだと思う。 (大田将之)

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 神戸新聞のシリーズ「すがたかたち ルッキズムを考える」では、容姿を巡る体験談やルッキズムに対する考えを紹介しています。私たちはなぜ、人の容姿にあれこれと口を出してしまうのか。なぜ、見た目がこんなにも気になるのか。どうすれば傷つけてしまう前に立ち止まることができるのか-。そんな問いについて考えながら、見た目に複雑な心境を抱く「当事者」らにお話をうかがいました。

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