T-BOLAN【森友嵐士インタビュー】シングルツアー敢行中!挑戦していたあの感情を蘇らせろ  T-BOLAN のヴォーカリスト森友嵐士ロングインタビューが実現!

T-BOLAN【森友嵐士】ロングインタビュー1

森友嵐士がこれまでのキャリアを振り返るロングインタビュー

2021年にはデビュー30周年を迎えたT-BOLAN。「離したくはない」「Bye For Now」など、90年代に数多くの大ヒットを放ち、誰もがその曲をカラオケで歌っていた。そんな時代を甦らせるかのように、最初で最後というシングル・ベストツアー『T-BOLAN LIVE TOUR 2023-2024 “SINGLES″ 〜波紋〜』の真っ最中。2023年8月19日の三郷市文化会館での公演を皮切りに、90年代に発表したすべてのシングル全曲を歌うという驚きの内容だが、ボーカル 森友嵐士に、このツアーに対する思い、そしてこれまでのキャリアを振り返るロングインタビューを敢行した。

―― T-BOLANは現在、全国ツアー『T-BOLAN LIVE TOUR 2023-2024 “SINGLES″ 〜波紋〜』の真っ最中ですが、このライブは90年代のシングル曲を全て演奏する、という大胆な企画ですね。

森友嵐士(以下、森友):そもそも、T-BOLANを完全復活させた1番の目的は「再会」なんです。俺たちは90年代の本格的な活動は、実質約3年半ぐらいしかやっていない(その短期間に驚異的なスピードで作品リリースやライブツアーを敢行)。CDはミリオンセラーを出していても、ライブでファンと会えるのは、1つのツアーでせいぜい数万人。音楽で繋がった方たちと、実際に会場で会えたのは、本当に少ないわけです。ですから、1曲だけでも俺たちの曲に触れてくれた人たち全員と会いたい、というのがいちばんの思いです。直接会ったことがない人たちとも、音楽を通して触れ合っているわけですから、今回はそういう人たちとも直接的な関わりを持ちたいな、というのが動機です。ただ、ライブツアーは、俺たちが今考えていることを打ち出し、メッセージを届けるものだと思っているので、「シングル全曲やるという発想はこれまでありませんでした。コロナ禍の中でも28年ぶりのアルバムを制作し、そのメッセージを届けるためにライブをやりましたが、コロナはお客さんが会場に来るにはなかなか厳しい状況でした。

―― 2022年の『愛の爆弾=CHERISH〜アインシュタインからの伝言〜』ですね。

森友:ええ。だけどライブに関しては、みんながそれぞれ所属している社会や、家庭のルールもあるし、なかなか足を運べなかった。でも、今やっと声出しもOKになり、自分の意思で音楽を楽しめるようになった。それはすごく喜ばしいことです。この状況になって俺たちもライブをお客さんたちが一番喜んでもらえる形にしたい。それはなんだろうと考えたら、街中でファンの人と会うと、「いつも歌ってます!」って必ず言ってくれるんですよ。

―― 「いつも聴いてます!」ではなく「歌ってます!」ですか。

森友:そうなんです。カラオケで歌ってくれる方が多くて「ああ、みんな歌いたいんだな、それが嬉しいんだな」と思った。もちろんライブでも一緒に声を出して歌う人もいれば、心の中で歌ってくれる人もいるけれど、音楽って、一人一人の記憶で繋がっているところがあるので、それを歌うことで重ね合わせる時間が嬉しいんだと。それなら、みんなが歌っていた曲、90年代のシングルを全曲やろうと思ったんです。シングルはこれまでに15枚出ていて、ダブルA面になったものもいくつかあるから、それを全曲歌おうと。こういう企画は今回限り、最初で最後だから、それならば全国全て回りたいと思っているんです。だからこのツアーはファイナルを決めずに、続けられる限りは続けよう、来て欲しいというところに行こう、ということで、会場もどんどん増えていっているんです。

若い頃に挑戦していたあの感情をもう一度蘇らせろ!

―― 8月にスタートしたツアーも、現在3ヶ月が経過しましたが、いろいろな会場での反響、手応えはいかがですか。

森友:想像よりもみんな歌いますね(笑)。それに、歌っている時の表情はみんなめちゃくちゃいい顔をしています。今回、客席に降りて歌いながらみんなの中を練り歩くパフォーマンスがあるんですが、その時のお客さんの顔を、鏡に映して見せてあげたい。誰かに見られているとか気にしないで、ワーッと盛り上がっている表情なんて、普段の生活ではなかなか見せないでしょう。それって生きている喜びの瞬間なんだと感じました。その生きる喜びが今、減っている時代だから。子供たちも未来に希望を持てなくなっている。でも、若い頃って “できるか、できないか” よりもやりたいことをやろうとするでしょう。それが達成された時、自信に繋がるんだけど、今は最初からできることしかやらない人が増えている、失敗することを恐れるというか。そんな今だから、ワーッと感情が溢れ出ている自分の顔を見て欲しいんですよ。ツアーのキーワードは「タイムリープ」。“若い頃に挑戦していたあの感情をもう一度蘇らせろ!” と。感情が溢れ出ている自分の顔を見ることで、それを思い出してくれたら嬉しいです。今の自分は、何を手放し何を掴んできたのか、そこに思い当たってくれたら、今回のツアーは大成功だと思っています。

森友嵐士が歌うことに魅せられたきっかけとは?

―― 今回は、90年代のシングル曲を全て歌うツアーということで、T-BOLANの代表的なシングル曲の誕生エピソードをお聞かせいただければと思います。その前に、森友さんが歌うことに魅せられたきっかけ、そしてデビューまでの経緯をお伺いできればと思います。自分の中で、歌が特別なものである、と思った瞬間はありますか。

森友:子供の頃から歌うことは好きでした。中学生の頃、学校の音楽の先生が家に来て、「オペラ歌手の道に進ませたい」と両親を説得しに来たことがありました。でも、それは当時かっこいいとは思わなかったからお断りして、その頃から歌というものに対して、自分はみんなと違うものがあるんだな、と子供ながらに認識していました。高校の頃から楽器を持って、文化祭で歌い始めていましたが、初めて立ったステージで、学校のマドンナ的存在の女の子が客席にいて、俺が歌い始めたら、その子が泣いたんですよ。これは忘れられなかった(笑)。

―― 10代にして、歌で人を泣かせたんですね。

森友:俺の歌は、その子の涙を手にしたんだ。俺の中では、歌って力があるんだな、とは思ったけれど、だからと言ってプロを目指そうとは思わなかった。広島県の府中というところの出身ですが、芸能界はあまりにも遠すぎて、目標にすらならなかったんです。

――ではその気持ちに変化が現れたのは。

森友:大学生になって上京して、湘南にあった、桑田佳祐さんのお父様が経営していたライブハウスでアルバイトをしていたんです。最初はそこに集まるバンドのデモテープを作ったり、裏方でサポートみたいなことをやっていた。その店は週末がライブハウスで、ウィークデーはショーパブだったんだけど、ある日出演する先輩たちが風邪でダウンして、何も出し物ができなくなって、「森友、お前何かできない?」とオーナーに聞かれて、歌を聞かせたんです。そこで “いとしのエリー” を歌ったら「お前、いいじゃん!」となって、それから歌い始めたんですよ。そしたら徐々に噂になって、その後T-BOLANのドラムになる青木(和義)がやっていたバンドのプロデューサーの耳に届いた…。青木とはそこで出会いました。大学4年の時でしたが、その時、できることはいっぱいあったけれど、仕事にするなら “できるか、できないか” ではなく、“やりたいことをやろう” と。青木の誘いに乗せられるような形ですが、心の中にある音楽への思いを引っ張り出して、本気で挑戦してみようとスタートした。それが始まりです。

「ロックやってんだろ。ロックは自由だ」と言われ、目が覚めた

―― ビーイングの長戸プロデューサーと出会うのはいつ頃でしょうか。

森友:21歳ぐらいの頃、目黒のライブステーションという会場で、オーディションを受けたんです(ビーイング主催の第2回BADオーディション)。それで、演奏している途中でいきなり、男の人の声で「やめろ!」と演奏を止められた。それで別の部屋に連れていかれたんですが「いいね。やろうよ」と。それが長戸さんでした。俺は長戸さんを知らないし、青木は「うんと言ってくれ」っていうから(笑)、OKしたんです。それが出会いですね。

―― それでビーイングの所属に。

森友:…と言ってもプロ契約ではなかったんです。ライブハウスを年間150本くらい回って、インディーズレーベルの “YEAH” からBOLANとしてデビューしましたが、ライブ中心の活動でした。でもそれも3年半ぐらいで、思うところがあり一度辞めているんです。その時、もう1回、自分が自由に思い描けるバンドを作りたいと思ったんですよ。同じメンバーでずっと活動していると、求めるものがズレてきたり、時間が経つうちにそのズレが大きくなっていくんです。関係性にも歪みが出てきていたけど、俺は音楽をやることで悩みたくなかった。そこで尊敬する近藤房之助さんに相談したら「ロックやってんだろ。ロックは自由だ」と言われ、目が覚めたんです。そうだった! それなら一度ゼロに戻ろうと、全てを手放して。長戸さんにもその話をして、辞めるのではなく「休む」という形になったんです。その後バンドを複数組んだり、大好きな歌うこと中心に活動していました。そうしたら一年半後に、長戸さんから電話が来たんですよ。

「お前が後ろにいないとダメなんだ」、これがT-BOLAN結成のきっかけ

――その間、長戸さんとは連絡を取ってなかったんですか。

森友:まったく取っていなかった。ある日電話が来て「どうしてるんだ? たまには顔見せに来いよ」と言われ、ビーイングに伺ったんです。部屋に入った瞬間に、ラジカセの再生ボタンが押されて、川島だりあさんの仮歌で「♪ 久しぶりだねー」と、なんの前置きもなく曲が流れてきた。しかもその曲は俺が1年半、離れている間に描いていたビジョンにぴったりだったんですよ。「めっちゃかっこいい曲ですね」と言ったら、長戸さんが「これ、歌おうよ」と。「この曲でデビューしないか」と言われました。

―― それがデビュー曲の「悲しみが痛いよ」。長戸さんのそのエピソードはしびれますね。ど直球じゃないですか。

森友:かっこいいですよね! 俺も言ってみたい(笑)。でも、ソロで行こうと言われたので、そこは「ちょっと待ってください」と。その間、5つのバンドをやってきたけれど、どこにも俺の答えは見つからなかった。結局、俺が最初にバンドの世界に入るきっかけとなった、ドラムの青木、あいつがいないとモチベーションが上がらないと気づいたんです。青木とも1年半離れてたんですが、結局、「お前が後ろにいないとダメなんだ」と話して、青木も「俺もそうなんだ!」というから、一緒にまたやろう!という話をしてたんです。

―― 空白の1年半の間に、互いの存在を強く感じていたわけですね。

森友 ギターの五味(孝氏)とベースの上野(博文)もその時の自分の中では決めていて、それで長戸さんに演奏を聞いてもらったら、もう目配せでOKでした。これがT-BOLAN結成のきっかけです。

次回、T-BOLAN【森友嵐士インタビュー】② につづく(12/6掲載予定)

カタリベ: 馬飼野元宏

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