『ニッサンR86V』ル・マンへの第一歩を歩み出したニッサンの記念碑【忘れがたき銘車たち】

 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、1986年の全日本耐久選手権やル・マン24時間レースを戦ったグループCカーの『ニッサンR86V』です。

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 ニッサンは1986年〜2015年まで、途中の中断期間を挟みながらも11回、ル・マン24時間レースに参戦している。今回、紹介する『ニッサンR86V』とは、そのル・マン初出場を1986年に果たした記念すべき1台だ。

 1985年にニッサンは富士スピードウェイで初めて開催された世界耐久選手権(WEC)の一戦であるWEC in JAPANを制したことを契機として、1986年に初めてル・マンに挑むことを決めた。

 ニッサンとしては、1960年代後半に当時のプロトタイプレーシングカー『R380』で参戦しようとするも断念した経緯もあり、ル・マンへの挑戦は悲願だった。

 1986年のグループCカーレースを戦うためにニッサンが生み出した『R86V』は、マーチエンジニアリングのマーチ86Gというシャシーをベースに、前年より導入されたV型6気筒ツインターボエンジンのVG30を搭載したマシン。

 ラジエターやインタークーラーがボディサイドへ移設されるなど冷却系のレイアウトが大きく変更されたほか、カウル形状の改良による空気抵抗の低減や車両重量の大幅な軽量化も進んだ車両だった。

 『R86V』は、1986年の全日本耐久選手権の開幕戦鈴鹿500kmでデビューを果たすと(予選での炎上により決勝出場は断念)、第2戦全日本富士1000kmでは5位で完走を果たし、初のル・マンへと向かった。

 初参戦ということもあり、テストデーからガソリンのオクタン価の違いなどからエンジンにトラブルが起きるなど、さまざまな問題も発生していたが、『R86V』は星野一義のアタックで総合24番手のタイムをマーク。目標のひとつとしていた予選通過を達成して、決勝レースへと臨んだ。

 迎えた決勝レースではスタートから徐々に順位を挙げ、総合17位までポジションを上げる場面もあったが、スタートから6時間を過ぎたころにトラブルでピットイン。フライホイールのバランス不良により、すさまじい振動が発生し、その振動がエンジンにもダメージを与えてしまっていた。この修復は困難と判断したチームは、リタイアを決断したのだった。

 その後、生き残った『R85V』もエンジンの始動不良などのトラブルに見舞われたが、隣のピットだったポルシェ陣営のアドバイスや協力にも助けられて、16位で完走を果たしている。

 帰国後、日本での戦いを再開した『R86V』だったが、ポールポジションを獲得するなど速さこそ見せるものの、トラブルも多く完走もままならない状況だった。そしてニッサンは、信頼性確保を含めたポテンシャルアップを狙い、1987年に向けて純レーシングエンジンの開発に踏み切るのだった。

1986年のル・マン24時間レースを戦ったニッサンR85V。長谷見昌弘、和田孝夫、ジェームス・ウィーバーがステアリングを握った。
1986年の全日本耐久選手権第4戦鈴鹿1000kmを長谷見昌弘と和田孝夫のドライブで戦ったNISSAN・R86V AMADA。
1986年の全日本耐久選手権第4戦鈴鹿1000kmを戦ったNISSAN・R86V PERSON’S。松本恵二、鈴木亜久里、ティフ・ニーデルがドライブした。

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