大河『家康』大坂冬の陣 豊臣秀頼と戦をすることになった理由 「真田丸」は徳川方を苦しめる 識者語る

NHK大河ドラマ「どうする家康」第46話は「大坂冬の陣」。徳川方と豊臣方との戦「大坂冬の陣」が描かれました。慶長16年(1611)3月、徳川家康(松本潤)と豊臣秀頼(作間龍斗)は、京都・二条城で対面。この二条城での対面により、秀頼は家康に「臣従」したとする見解もあります。しかし、豊臣家が徳川家に臣従する一大名に転落したかと言えば、事はそう単純ではありません。親王や公家衆は、依然として、年賀(新年を祝う挨拶)のため、大坂(大阪)に下向していました。これは、大坂の陣が起きるまで続きます。

また、徳川家が諸大名に課していた「御手伝普請」(城の普請に際して、諸大名を動員。大名は石高に応じて、一定の家臣や人夫を派遣し、普請に従事しなければならなかった)は、秀頼には課されていませんでした。

江戸の将軍から発布された法令を守らなければいけないという三箇条の項目に秀頼は署名していません。諸大名は起請文を提出しています。これらの例外は、大坂にある豊臣秀頼が、一般の大名とは異なっていたことを示しているでしょう。

だが、その事は、家康を不安にしていたと思われます。二条城の会見の時、家康は既に69歳。いつポックリ逝ってしまっても、おかしくはありません。もし、自分(家康)が死んだ後に、大坂の秀頼が朝廷から関白に任命されでもしたらどうなるか。江戸の将軍・徳川秀忠(家康の子)と、大坂の関白・豊臣秀頼とが並び立つ事態となり、争いの基になりかねない。とは言え、二条城に出向いて、家康に礼を尽くして接した秀頼を、何の罪もないのに、滅亡に追い込んだり、大坂城から追い出すことはできません。

家康としては、秀頼を滅亡させないにしても、大坂城から追いやって、どこかの国を与え、普通の大名として、徳川家に臣従させたいと感じてはいたでしょう。そんな家康にとって、京都・方広寺の大仏殿の鐘銘問題は、秀頼を追い詰める絶好の機会となりました。

秀頼は慶長14年(1609)から大仏殿と大仏の再建を始め、3年後には、完成まであと一歩という所まで迫っていました。慶長19年(1614)4月には釣鐘の鋳造も行われ、大仏開眼供養の日時なども、家康の了解を得ていたのです。ところが、7月下旬となって「大仏の鐘銘、関東不吉の語あり。上棟の日、吉日にあらず」と徳川方が文句をつけてきたのでした。鐘銘の文言「国家安康」「君臣豊楽」が、家康の名前を切り裂き、豊臣家の繁栄を願っているとして、問題視されたのです。豊臣方からは、片桐且元が弁明のため、家康がいる駿府に派遣されます。が、且元は家康には会えず。

この問題の解決策は且元に委ねられることになりました。且元は、秀頼が江戸に参勤するか、淀殿(秀頼の生母)が人質として江戸に下るか、大坂城を明け渡して、国替えするかという3案を大坂に帰って秀頼に献策します。家康は、淀殿の使者(大蔵卿)にはすぐに対面し、鐘銘の件は案ずることはないと伝言しています。この対応の差。且元の献策は、家康に追従するものと見做され、豊臣方の対徳川強硬派から命を狙われる事態となります。且元は大坂城を脱け、摂津茨木城に籠城。且元の殺害計画を口実として、家康は開戦を決意。諸大名を動員し、ついに大坂冬の陣(1614年11月)が勃発するのです。

1614年11月中旬、大坂冬の陣開戦。徳川方の井伊直孝などの軍勢が、真田信繁(日向亘)が籠る大坂城の曲輪「真田丸」に攻めかかるも、砦より鉄砲により射撃を受け、敗退することもありました。徳川方の死者は諸説ありますが、数千人に上ったと言います。しかし、他所の戦いにおいては、徳川方が勝利し、豊臣方は追い詰められていきます。

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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