ガザで起きたMSF車列への攻撃:全ての要素がイスラエル軍の責任を示している

パレスチナ・ガザ地区で11月18日、国境なき医師団(MSF)のスタッフとその家族らを乗せた車列が銃撃を受けた。MSFの車両に対する意図的な攻撃とみられ、2人が死亡した。いずれもMSFスタッフの家族で、うち1人はシファ病院でMSFの医療チームを支援するボランティアでもあった。

その時、現場にいたスタッフの証言を集めた結果、全ての要素が、この攻撃の責任はイスラエル軍にあることを示している、とMSFは考える。

11月20日にイスラエル軍によって破壊されたMSFの車両。ガザ地区中心部にあるMSF診療所の前に駐車していた。診療所も銃撃を受けた © MSF

MSFはイスラエル当局に公式の説明を求め、独立調査を要請する

MSFはまた、11月20日にMSFのロゴを明確に示した車両5台が破壊されたうえ、ガザ地区中心部にあるMSF診療所に甚大な被害がもたらされたことに関する証言も集めた。これらもイスラエル軍のブルドーザーと大型軍用車両が関係しているとみられる。この時に破壊された車両は、MSF車列への攻撃について第三者による独立調査が行われるとすれば、証拠となりうるものだった。

銃撃はスタッフが避難していたMSFの施設に向けられ、内壁に弾痕が残った。MSFのスタッフは11月24日、イスラエル軍の戦車によって、MSFのロゴが明確に示された小型バスが破壊されるのを目撃した。このバスは、数日前に車両5台が破壊されたため、ガザ南部のMSFチームが北部の同僚の避難を支援するために送ったものだった。

MSFは車列に対する攻撃を最も強い言葉で改めて非難し、犠牲者の家族に改めて哀悼の意を表する。

MSFはイスラエル当局に対し、この攻撃に関する公式な説明を求めるとともに、事実と責任を明らかにするための独立した調査を要請する。

弾痕ができたMSF施設の内壁 © MSF

この苦難を経験したスタッフや家族は、11月24日にガザ地区南部に避難するまでの約2週間、激しい戦闘の中、電気もなく、食料や水へのアクセスも限られたMSFの施設に閉じ込められていた。

以下は、11月26日から29日にかけて記録された、スタッフらの証言だ。

破壊された車両には「MSF」の文字とロゴがあり、MSFの車両だと明確に分かる状態だった © MSF

11月18日:MSFのボランティアとスタッフの家族がイスラエル軍に殺害される

11月18日、エルサレムのMSF事務所が、私たちガザのスタッフが北部にある事務所と診療所、宿舎から南部に避難する許可を得ました。私たちは荷物をまとめ、全員が車に乗り込み、サラハディン通りを南下する準備をしました。

サラハディン通りの検問所に到着しました。私は4台目のバンに乗っていました。イスラエル軍の兵士らがそこに立っていて、許可がないので元の場所に戻るように言われました。

11月18日、MSFのロゴで明確に識別された5台の車両からなる車列が、MSFの施設(宿舎、事務所、診療所)を出発し、より安全な場所に向かうため、ガザ南部に向かった。11月11日以来、彼らは周囲で続く戦闘に巻き込まれ、それ以来、MSFは彼らを安全に避難させるよう繰り返し呼びかけていた。

MSFはこの避難行動について、紛争当事者双方に伝えていた。

車列は、イスラエル軍が示した行程に従い、この地域を離れようとする他の市民とともに、サラハディン通りに入った。

車列は(南北ガザを分ける)ワディ・ガザ近くの最後の検問所に到着した。検問所はイスラエル軍がパレスチナ人を厳しくチェックしていたため、混雑していた。

イスラエル当局から事前に許可を得ていたにもかかわらず、車列は検問所を通過することが許されず、何時間も待たされた。このため、検問所から7キロほど北にあるMSFの施設に戻ることにした。

私たちは3時間ほどそこにいました。何百人もの人が待っていました。検問所が通してくれないので北へ戻る人もいました。

車に乗っていた同僚たちは、『戻ろう、今行ける避難場所はMSFのガザ事務所だけだ』と言いました。

私たちはポール(エルサレムにいるMSFの同僚)に連絡し、検問所の通過が許可されなかったので引き返すと伝えました。彼は、私たちが戻ることができるよう許可を求めると言いました。

その帰り道、現地時間午後3時半から4時の間、車列はMSF事務所に近いサイード・アル・アース通りとの交差点近くのアル・ワヘダ通りで攻撃を受けた。MSFの車2台が故意に撃たれ、MSFチームのボランティアをしていた看護師が死亡。別のスタッフの家族が負傷し、のちに死亡した。

MSFの事務所や宿舎、診療所の近くにあるアル・ワヘダ通りに到着したとき、私は戦車と、周囲の建物の上にいる複数のスナイパーを目撃しました。スナイパーと戦車が私たち、特に(車列の)4台目と5台目のバンに武器を向けているのを見て、恐怖を感じました。

銃弾が私の額をかすめ、軽い怪我をしました。弾は私の隣に座っていたアラアの頭に命中しました。彼は頭に重傷を負い、大量に出血し始めました。

彼の頭ががくんとハンドルの上に垂れたので、私はすぐにハンドルを握り直して車を道路の右側に寄せました。

私たちは診療所に到着し、アラアの命をつなぐため頭部からの出血を止めようとしました。しかし、私たちが救おうとしている間に、彼は亡くなりました。

診療所の入り口で止まり、最後の2台のバンが来るのを待ちました。人びとが、1人殺された、アラア・アッシャワだと言っていました。

私たちはショックを受けて立ちつくしました。言葉を失い、考えることもできなかった。子どもたちは泣いていたし、みんなは彼をどうやって埋葬するか話し合っていました。そしてもう1人、腹部を負傷した人がいました。

診療所よりも安全だと思ったので、50人ほどの人たちと一緒に宿舎に避難することにしました。(同僚の)ムハンマドとその家族、その他の家族は診療所に残ることにしました。

車は診療所の外に停めてありました。ほとんどの人の荷物は車の中にありました。 診療所の人たちと連絡を取り合いました。彼らはアラアを埋葬したと言っていました。

11月20日:MSFの車両5台がイスラエル軍に破壊される

車列への攻撃から2日後、イスラエル軍の戦車用に道を整備するブルドーザーがやってきて、私たちの車を傷つけ、道の右側と左側から押し出しました。私は診療所の2階の窓から、それを目撃しました。

階段の窓から、イスラエルのブルドーザーと、その隣に戦車が見えました。さらにその後ろに戦車などの軍用車両が4、5台いました。彼らは移動しながら発砲しました。激しい銃撃でした。

ガザ地区中心部のMSF事務所前で破壊され、炎上するMSFの車両4台=11月20日  © MSF

車が押しつぶされるような奇妙な音と銃声が聞こえました。窓の外を見ると 車は横に押し出され、火が出ていました。戦車が少し離れた時、私は怖かったけれど撮影を始めました。ひどい光景でした。同僚たちが診療所にいたので、火が燃え移るのではないかと心配になりました。診療所わきの木を炎が這い上がり、電線も燃えて、恐ろしい眺めでした。

(ブルドーザーが)車を押しのけたとき、診療所の西側の壁が崩れ落ちました。それから戦車が来て、MSFの車やバンに向けて発砲。MSFのバンは炎上しました。私は診療所にいたのですが、中に炎と煙が入ってきました。どうすれば火を止められるか、私たちは立ち尽くして考えました。そして、MSFの理学療法部門がある別の建物に、子どもたちと女性たちを裏口から移動させました。

私たちは診療所のドアを閉めて中に入りました。戦車は診療所の外の道を4日間、行ったり来たりしていました。

翌日の午前10時ごろ、私たちは同僚たちが無事かどうかを知るために大声で叫び始めました。誰かが、こっちは無事で私たちのことを心配していると返事をしてくれました。

11月24日:MSFの車両がさらに破壊される

以前は宿舎の発電機から電気を取っていましたが、この火事の後、送電線がすべて損傷し、3日間電気が使えなくなりました。この3日間と一時停戦の前まで、電気も食料も清潔な水もまったく手に入らなくなりました。

停戦初日の午前4時半、イスラエル軍の戦車が、(ガザ南部から)私たちが避難するために送られてきたMSFの小型バスと車を破壊しました。

スタッフとその家族が利用できる唯一の交通手段だった車両がいずれも破壊されたため、ガザ地区南部に拠点を置くMSFチームは、さらに多くの車両をガザ北部に送り込み、再度の避難を試みようとした。しかし、その車両もMSFの診療所に向かう途中で被弾し、移動を中止せざるを得なかった。その後の11月24日未明、これらの車両もイスラエル軍に破壊された。

私たちMSFの同僚とその家族らは、11月24日朝に一時停戦が発効したのち、避難する他の市民らの車両に乗せてもらったおかげで、最終的に南部に向かうことができた。

MSFはイスラエル当局に対し、この攻撃に関する公式な説明を求め、事実と責任を明らかにするための独立した調査を要請する。

そして犠牲者のご家族に対し、改めて深い哀悼の意を表する。

© 特定非営利活動法人国境なき医師団日本