<インタビュー>“ヴィッセル神戸の未来”筑波大MF山内翔のアカデミー時代、あるサポーターの追憶

先月25日、ヴィッセル神戸は名古屋グランパスを2-1で破り、J1リーグ戦初優勝を達成した。Jリーグはすべての日程を終えた中で、最終決戦に挑む“神戸の男”がいる。

来季神戸へ加入する筑波大MF山内翔(4年、神戸U-18)は、今月10日(午前11時、東京・AGFフィールド)に大学最後の全国大会である全日本大学選手権(インカレ)の初戦を迎える。

今季はアジア大会(9月19日~10月7日、中国・杭州)に臨むU-22日本代表に選出され、関東大学1部MVPに輝いた大学屈指の司令塔と称される山内にキャリアの始まり、神戸アカデミーの日々、あるサポーターとの思い出などを聞いた。

グラウンドで育った大学屈指の司令塔

山内は小学校を卒業してから、兄の背中を追うようにしてヴィッセル神戸U-15伊丹へ加入した。ピッチ全体を見渡すような視野の広さ、戦局がきびしい状況でも落ち着いた立ち振る舞い、正確なパスと繊細(せんさい)なタッチコントロール技術など、中盤に求められる能力を高水準で備えている。大学最高の司令塔と称される山内だが、中学世代の環境は意外にも恵まれたものではなかった。

――サッカーを始めたきっかけを教えてください。

父がサッカーをやっていたことが1番ですけど、一つ上の兄(山内颯、昨季現役引退)が少年団に入るタイミングで、自分もそのときはまだ(保育園)年長でしたけど、チームに入って、そこからサッカーを始めることになりました。小学校を卒業するまでフォレストFC京都でプレーして、そこからヴィッセルに入りました。

――地元に京都サンガのアカデミーがありますけど、なぜ神戸U-15伊丹に入団しましたか。

自分がいた小学校のチームは京都府内で強かったです。チームには明治大の太田龍之介選手(J2ファジアーノ岡山内定)がいて、彼はセレッソ大阪(U-15)に行きましたし、他にもガンバ大阪ジュニアユースに二人行きました。

兄がヴィッセルの伊丹に入ったことが伊丹を知ったきっかけです。試合を観に行って、だんだん(伊丹の)サッカーや環境を知りました。たくさんのチームの中から選ぶというより、行けるチームに行った感覚です。

――伊丹の環境面はいかがでしたか。

いまは人工芝でやっていますけど、僕がいたときは3年間土のグラウンドで、平日だとフルピッチでの練習はほぼできなかった。火曜日は伊丹FCと(一緒に練習して)、水金か木金か忘れたんですけど、そのときはFCパスィーノ伊丹という伊丹市内のチームと(グラウンドを)半分、半分で使わせてもらう形でやっていました。

環境面でいうと他のJクラブアカデミーより過酷で、当時はちょっと特殊なチームではありました。そこで毎日練習もしましたし、電車での移動など、いろんな面でタフになれました。伊丹に行ったことは正解だったと、いまでは思っています。

――土のグラウンドで練習していたんですね。いまのプレースタイルを考えるとかなりの逆境ですね。いまのスタイルにつながる経験はありましたか。

中学のときは特に身長が小さくて、線も細かったので、初めは「キツいな」と思いました。その中でなにかしら自分の価値を見出さないといけないと中学生ながらに思っていました。

狭い中でもボール取られないことや、例えトラップが浮こうが、どうなろうがプレーし続けないといけないことは変わらないです。

そういうところは培えたと思いますし、パスの部分は周りの素晴らしい選手や、仲間にすごくレベルの高い選手いたからこそ、その人たちのお陰で成長したと思います。自分でなにかということよりも、「周りに負けたくない」や「周りの選手たちより自分が頑張る」など、いろいろ考えながらやっていたと思います。

恩師後藤ダイレクターの下で成長

神戸U-18に昇格した山内は、現アカデミーダイレクターの後藤雄治コーチ、現サンフレッチェ広島ユース監督の野田知U-18監督の指導を受けて世代別代表に選出されるほどの選手へと成長を遂げた。高校1年から頭角を現した司令塔は、当時指導を受けた後藤コーチの叱咤に感謝していた。

――アカデミー時代の印象的な思い出などを教えてください。

高校もそうですけど、中学生のときが1番きつかった思い出があります。小学生のときは京都府内やいろんな選抜も行っていた中で、「1年から試合に出られるだろう」と想いを持っていました。僕は飛び級をしたことがなくて、中学3年になって初めて自分の代で出始めたぐらいの選手だった。

中学1、2年のときも同じポジションに兄がいたので、「兄に負けたくない」と、負けたくない想いが中学生のときは強かった。きつかったですけど、アカデミー中高6年を考えれば、そのときが1番の思い出ですね。

――U-18時代は世代別代表に定着していました。印象的な思い出はありましたか。

僕は早生まれだったので、高校1年のときに初めてU-15の代表に入りました。そのときが初めての代表でしたね。僕はエリートじゃないと思っていたから「自分がまさか代表なんて…」というところから始まっています。

そのとき後藤雄治さんがU-18のAチームのコーチで、(当時U-18監督の)野田知さんの隣にいました。

後藤さんから「代表に行ける力もあるし、プロに行く力もあるのになんでそんないい加減…」と言われていて、後藤さんに「クソガキだった」とよく言われました(苦笑)。毎日きびしく指導してもらって1年のときプレミア(高円宮杯 JFA U-18サッカープレミアリーグWEST)に出させてもらったことで代表に入りました。後藤さんにきびしく指導されていなかったら、代表に入っていないと思います。自分の力でというよりは、後藤さんに言われたから代表に入れました。

――世代を代表する選手たちとの競争は刺激になりましたか。

そこからはU-17ワールドカップがあったので、そこが一つのモチベーションでした。なにより1年のときは試合に出たり、出なかったりと、自チームで試合に出るために頑張ろうと思っていました。

そのまま代表活動で評価されて選ばれ続けて、同世代の選手だったら半田陸選手(J1ガンバ大阪)、西川潤選手(J1サガン鳥栖)が呼ばれていましたので、普段ではできないような選手ともできた経験は自分にとってすごく刺激にもなっていましたし、すごく楽しかったです。

――後藤ダイレクターの指導が大きかったんですね。

それがなかったら筑波にも入れていなかったです。すごく言葉は悪いんですけど、“普通の選手”というか、そこそこで終わっていたんだろうなと思います。

同期小田の存在、スペイン改革

山内の同期には高校3年でトップチーム昇格を決めた小田裕太郎がいた。今年1月にスコットランド1部ハーツへと完全移籍した自分の前を進む同期の活躍は、負けず嫌いの山内にとって大きな刺激になっている。

――同期の小田選手がトップチームに昇格して、現在はヨーロッパで活躍されています。山内選手にとって彼はどのような存在ですか。

入学当初から自分と小田選手がAチームでした。ほとんどAチームで帯同していて、ずっと一緒に試合に出ていましたね。

語弊はあるかもしれませんけど、そんなに仲良くないというか(苦笑)、ユースのときはめっちゃ仲良く喋っていたというわけではないです。僕は早生まれの代表(1個下の世代の代表)に入っていましたけど、彼は(早生まれで1個前の世代別代表に入っていた)僕より1個上の“自分の代”の代表に入っていた。

代表に選ばれている彼は本当に刺激になっていました。ポジションは違いますけど、一緒に2種登録もして、当時のナビスコカップ(JリーグYBCルヴァンカップ)も一緒にベンチに入りました。自分は出られなかったですけど、彼はその試合に出ました。試合は負けましたけど、そのプレーが評価されてトップに上がったと思うので。

悔しい気持ちはもちろんありましたけど、いまもスコットランドで活躍していてすごいと思うし、負けられないと思っています。

小田裕太郎(左)

――高2のときにスペイン人指導者ベナイジェスさんが来られましたけど、チームの環境は変わったりしましたか。

当時は分からなかったですけど、そういう新たな部署ができて、アカデミーはかなり変わりましたね。サッカーをより細かくというか、アカデミーがユースからジュニアまで(ベナイジェスさんが)来てから統一されたなと。アカデミー自体もすごく変わった印象があります。

――選手視点で変わったと思った部分はありましたか。

もともと野田監督が後ろからボールを大事にというか、そういう意味ではちょっとスペイン代表に近いサッカーをしていました。僕たちはそんなに変わらなかったですけど、練習もちょっと筑波とも似ているというか、練習時間がすごく短い。

短い中で100%を出すことや、自主練とかもそうですね。彼らが来る前は最後の最後まで自主練とかめっちゃ遅くまでできましたけど、(ベナイジェスさんが来てから)「早く帰れ」と言われて、当時はいろいろとストレスもありました(苦笑)。

こっち(筑波)に来てから(振り返ると)、そういう効率やケガのリスクを考えてやってもらっていたんだとすごく感じています。

プロとの差に無力さを痛感

世代別代表の常連となり、この世代で注目を受ける存在だった山内だったが、トップチーム昇格を逃してしまった。当時は同じポジションにMF山口蛍を筆頭にスペイン人MFセルジ・サンペールなど名手がそろっていた。プロの分厚い壁にはじき返されたが、ただでは転ばない。世界的な名手たちの姿勢、振る舞いを見て新たな学びを得た。

――トップチームへの昇格を逃しました。チームから伝えられた時期はいつでしたか。

日付までよく覚えてないんですけど、はっきり覚えているのが高3のクラブユースの(夏季)全国大会に出発する前の日に言われた記憶があります。

――そのときの心境はいかがでしたか。

中学からヴィッセル神戸というチームを身近に感じていましたので、そこに上がりたいという中でユースもやっていたから悔しい思いが1番強かったです。2、3年と、ユースでトップの練習に参加させていただく機会が多かった。当時は高2のときにアンドレス・イニエスタ選手が来て、高2の冬にはダビド・ビジャ選手、山口蛍選手、西大伍選手、高3の夏にはトーマス・フェルマーレン選手、酒井高徳選手が来ました。神戸の入れ替わりが激しい、来る選手のレベルが上がった時代でしたね。

練習をやっている中で上がりたい気持ちはもちろんありましたけど、自分が上がれる力があるかといったらそうではなかったので…。それは練習に行ったら自分のレベルの低さというか、自分の力の無さをすごく感じていたからです。

上がりたいと思っていましたけど、上がってすぐに活躍できたかと言ったら絶対そうではなかったと思う。悔しい思いが1番強いというのはありますけど、その反面納得というか、いま考えれば「それはそうでしょう」と思うときもありました。

アンドレス・イニエスタ

――すごい選手ばかりですよね。彼らからどのような刺激を受けましたか。

ユースとプロはまったく違うなと…。それは選手どうこうじゃなくて、プロはまったく別物だとユースのときに思いました。もうなにもかも違うし、スピード感や周りの環境がまず違います。スタッフの数、練習にかける準備と、1日にかけるトレーニングも。

そのときの監督もリージョさんやフィンクさんと初めての外国人の監督でした。自分は日本人の監督が当たり前の中でやっていたので、プロという世界は本当に別物だというのが始めの印象です。

追憶、レガースに書いた言葉

山内にとって忘れられない存在がいる。中学時代から自身を応援してくれたファンの山城和也さんだ。神戸が創設したころからチームを応援し、ユース、ジュニアユース世代のチームも会場に駆けつけて声援を送り続けた。

だが別れは突然やってきてしまった。2022年2月に山城さんが50歳で逝去した。アカデミーの選手たちからは慕われる存在だった。それでも山城さんの意志はいまも生きている。山内は自身を応援し続けたファンの言葉とともに、ピッチに立っている。

山城和也さん

――サポーターの山城和也さんは覚えていますか。

はい。覚えています。

――伊丹時代から山内選手を応援されていた山城さんは、恐らく1番最初の山内選手のファンだったと思うんですけど、どのような存在でしたか。

自分だけじゃなくて自分の家族と仲良くさせてもらっていた中で、突然のことだったので本当に驚きました。

ずっと応援してくれていましたし、自分が(育成年代の)代表に初めて入ったときも新神戸駅まで来てくれて、横断幕を掲げてくれて…。そこまでしてくれる人はいないと思うので、自分からすれば本当にありがたかったです。そういう方が不幸なことになってしまったことが本当に残念です。

自分がプロになって活躍する姿を見せたかったと素直に思います。これは誰にも言ってないというか、初めてなんですけど、去年のシーズンに入る前に自分でレガースを作ったとき、山城さんがよく言っていた『enjoy football』という言葉がありました。その言葉をレガースに入れています。それを試合前に目にすることがあります。

――そのレガースはいまも使われていますか。

いまも使っているやつですね。持ってきたら良かったんですけど(笑)。

――天国で喜んでいると思いますよ。

いつだったかな。アカデミーのときも毎試合のように来てくれていました。ユースなので、高校サッカーと違って観客の数も少ないです。その中でジュニアユースも応援している方がユースの応援も来ていただいて。自分たちのために応援していただいたことは感謝してもしきれない想いがあります。本当にいい報告ができればと思っています。

――山城さんにどのような活躍を見せたいですか。

山城さんはずっと「サッカーを楽しむ」とよく言っていたので、自分がどんな活躍ができるか分からないですけど、サッカーを楽しんでいる姿を1年でも長く。それがJリーグであれ海外であれどのカテゴリーに行っても、自分がサッカーを純粋に楽しんでいる姿を見せたいと思います。

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神戸の未来と期待される山内はアカデミー卒団後に、大学サッカー屈指の名門である筑波大へ進学した。筑波大蹴球部での成長、大学2年での神戸内定、大学サッカーでの決意を次回のインタビューに掲載する。

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