打球の行き先はボールに聞いてくれ・加藤秀司さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(30)

1978年7月のクラウン戦で本塁打を放つ加藤秀司さん=平和台

 プロ野球のレジェンドに現役時代や、その後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第30回は加藤秀司さん。1970年代の阪急(現オリックス)の黄金期には主軸打者として活躍しました。ある打撃成績では、王貞治さんを抑えて歴代2位の通算記録を誇っています。(共同通信=栗林英一郎)

 ▽高校時代のドラフト指名は連絡も何もなし

 静岡市内に行くのに1時間半ぐらいかかる、海の方(現在の牧之原市)の田舎で生まれた。5男5女で8番目の五男。野球をやってなかったら高校進学はしてないやろね。料理学校とか専門の道に進もうかなというのはあった。それも本格的に考えてはいなかった。きょうだいは多いし、田舎に残っていても仕事はなく、どっか遠い所へ行って自分で仕事を見つけて就職したらどうや、という感じ。
 何で大阪のPL学園から誘われたのか、全然分からなくて。PLは宗教団体で全国に支部があり、そういう関係の人から話があったんやないかな。取りあえずセレクションっていうんかな、50メートル走とか遠投とか、それに参加してほしいと。母親と一緒に行ったんですよ。浜松から夜9時に鈍行列車に乗って大阪に朝7時に着いた。外国に行ったみたいだったね。静岡弁から大阪弁に変わったんだから。球場が2面で、外野が芝で、うわあ、すごい施設やなってびっくりした。母親は全寮制をえらく気に入ってしまって。ここに預けとったら安心だって思ったんじゃないですかね。同期は東京から1人、茨城から1人かな、熊本から2人、広島から1人、名古屋から1人か2人、そういうふうに全国から来とった。
 高校2年ぐらいから松下電器(現パナソニック)に、プロへ行かなかったら来てくれって言われとったんです。もう就職決まっちゃってるやん。3年の時は、やっぱり気合が入らんかったね。そういうこともあったのか(選手として)思ったよりも伸びなかったかな。
 今みたいにドラフトで指名されたら100%入団じゃなかった。明くる日、誰かが新聞を見て「おい指名されてるぞ」っていう時代ですわ。(高校時代の東映からの指名は)いきなり。連絡も何にもないよと言われて。東映に行ったってレギュラーを取れるかどうか分からへんし、向こうからあいさつも何もなしやし。コーチの人に、念のために契約金がいくらか、どういう条件か聞いてくださいと言ったら、全然低かった。パナソニックは今もすごいけど、50何年前も高校から松下電器に就職って、なかなかできないんでね。

阪急に入団した当時の加藤秀司さん=1969年1月撮影

 ▽西本幸雄監督の一番良かったところ

 松下に入社した年にピッチャーをちょこっとやったんですけども、やっぱり駄目や思うて2、3カ月でやめてしまって打者に転向した。(68年のドラフトは)阪急から2位でいくと言われ、条件も良い条件をもらった。どうせ何年かやって駄目やったら、やめりゃええと思って入団した。その頃って各球団に右のサイドや下から投げるピッチャーが3、4人いたんですよ。エース級も。それを打ちやすいという話で、当時は左バッターが結構ドラフトされとるんです。「こんな人が行くの?」っていうような人まで下位の方で指名された印象がありますね。そういう意味で左バッターは貴重だから良い評価をもらった。力があったのかどうか分からんけども。
 プロ野球というのは、こんな高いレベルでやってんのというのが第一印象。これに追い付いていこうと思うたら体がつぶれてまうなと、じっくり体力づくりをして環境に慣れてからでもいいんかなと思うたりした。2年目(35試合出場で打率3割3分3厘)は終わり頃に結構打って、その年のオフは12月末まで練習した思い出があります。

1975年のパ・リーグ最優秀選手に選ばれた加藤秀司さん(右)は最優秀新人の山口高志さんと握手=大阪市北区の阪急球団事務所

 西本幸雄監督に出会えなかったら、今はなかった。練習量と熱心さというか、つかまえたら離してくれない。室内練習場に打撃マシンが2台あって、一つは西本さんに指名されてマンツーマンで打った。西本さんにやらされた時は数は多くなってくるわね、どうしても。夜は夜で素振りやったりティーバッティングをやったり。風呂、飯、寝る、練習、その四つやね。練習は1日の半分。やっぱり若いから体力があったんかどうか知らんけど、しんどいとは思わんかった。
 西本さんは、とにかく数を打たせた。細かな指導はあったけども、全体的にはずっと目の前で本人が見てるからサボれんというか息が抜けない。僕がサボる名人やったから、放っておったら何してるか分からんというのはあったと思います。罵声を浴びせられるのはしょっちゅうやった。でも、何で怒られたんだってことを、ことごとく説明してくれた。選手に納得させる力は、ものすごくあった。何でこんなんで怒られないかんねん、という不信感がありながら練習させられたら、やっぱり気持ちも入ってこない。納得してやるから身になったですよね。あの人の一番良いところは、そこじゃないですか。
 巨人のV9時代は(日本シリーズで)5度戦って勝てずじまい。どこの球団もON(王貞治さん、長嶋茂雄さん)に打たれて優勝できなかったというのが多いんじゃないですか。(74年に)長嶋さんが引退し、これで阪急が日本一になれるって、みんな声をそろえて言ったんですから。案の定、翌年に日本一になっている。そりゃ王さん1人やもん。他の選手が悪いんじゃないけどね。

1977年10月、巨人との日本シリーズ第5戦で2ランを放つ加藤秀司さん=後楽園

 ▽打率重視で積み重なった犠牲フライ

 (70年代の強い時期は)みんなチャンスで打ったね。ほんで守りもしっかりしとった。外野に打球がいっても間を抜けないですもん。守備が下手なのはファースト(加藤さん)ぐらい。何でもそうなんだけど、スポーツは気持ちが入らんかったら全然良い仕事ができない。例えば1対10で負けていたら、こらもう勝てんわってなる。到底追い付かない点差でいくと気合も入ってこないんだけど、当時のチームは、ここでちょっと頑張ったら、あと1点取ったら勝ちになるんちゃうかなって最後まで望みが残るゲーム展開が多かった。だから強かったんちゃう? 接戦になるには何やっていったら、守りが良かったから違うかな。

加藤秀司さんは南海時代の1987年5月、阪急に同期入団の山田久志さんから本塁打を放ち、通算2千安打を達成=大阪

 ヒットを狙うとかホームランを狙うとか、僕は一切したことがない。とにかくバットの芯に当てて、行き先は球に聞いてくれと。手首の使い方は結構うまいこと自由にできたから、どんなボールが来ようが芯で捉えることができた。だから練習用のバットなんか折ったことないです。良いスイングで芯に当てとったら、それがライナーになったりゴロになったりして野手の間を抜いていける。角度が良かったらホームランになる。
 (阪急に同期入団の)福本豊さんがフォアボールとかヒットで出たら、もう盗塁、盗塁と3球ぐらいでサードに立ってるからね。こっちは1点取るには簡単や。外野フライを打ったら取れる。歴代2位の105犠飛は打率を重視しとったから。(打数に加えない)犠牲フライは1打席、得するんやもん。基本的に思っているのは3打数1安打。4打数2安打は、そんなに打てない。2本先に打ったら4打席目をどうしていくか、3打数2安打にするか、そういうふうな考え方を常にしていた。

インタビューに答える加藤秀司さん=2022年6月、兵庫県西宮市で撮影

 (通算打率は2割9分7厘で)3割は打ちたかったねえ。でも、途中からなんぼヒットを打ったって上がりゃせん。何千打数何安打やから。もう一つの悔いは(79年に阪急の後期優勝後の)消化試合で近鉄のマニエルにホームランを2本打たれて三冠王を逃したこと(3割6分4厘と104打点の2冠で、35本塁打は2位)。消化ゲームやから何とかしてほしかった。野球人生の中で一番悔いが残るのは、それです。取れていれば、落合博満より前やからね。

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 加藤 秀司氏(かとう・ひでじ)大阪・PL学園高―松下電器から1969年にドラフト2位で阪急に入団。3年目から中軸打者となり、75年からの3年連続日本一に貢献。83年から広島、近鉄、巨人と移り、南海時代の87年5月に名球会入り条件の2千安打に到達。同年限りで引退。首位打者に2度、打点王には3度輝いた。日本ハム、中日などでコーチを務めた。48年5月24日生まれの75歳。静岡県出身。

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