先月25日、ヴィッセル神戸は名古屋グランパスを2-1で破り、J1リーグ戦初優勝を達成した。Jリーグはすべての日程を終えた中で、最終決戦に挑む“神戸の男”がいる。
来季神戸へ加入する筑波大MF山内翔(4年、神戸U-18)は、今月10日午前11時(東京・AGFフィールド)に大学最後の全国大会である全日本大学選手権(インカレ)の初戦を迎える。
今季はアジア大会(9月19日~10月7日、中国・杭州)に臨むU-22日本代表に選出され、関東大学1部MVPに輝いた大学屈指の司令塔と称される山内に筑波大蹴球部での成長、大学2年での神戸内定、大学サッカーでの決意などを聞いた。
他とは違う異質な新入生
トップチーム昇格を果たせなかった山内は、神戸アカデミー卒団後に大学サッカー屈指の名門である筑波大学へ進学した。
新入生として蹴球部に入部したルーキーを小井土正亮監督は「入部当初からボールを扱うところや、ゲームをコントロールする力は高い印象がありました。高校3年にしてはというと良くないですけど、非常に落ち着きがあるし、自分のペースにゲームを持ち込めるような力もある。他の選手とはまったく異質な感じを受けました」と振り返るほどの実力を持っていた。
入学当初は悲願のプロ入りを目指して、新型コロナウイルスの世界的な流行という過酷な状況下で汗を流し続けた。
――筑波大は推薦入試で入学されましたか。
はい。(アカデミー時代の恩師)後藤雄治(現神戸アカデミーダイレクター)さんが筑波の大学院に2年間通っていた方だったので、小井土さんともともと親交というか、つながりがありました。
筑波大に(練習参加で)来たのは6月ぐらいだったので、トップチーム昇格がどうなるか分からないときに行きました。そのときの4年が三笘(薫)選手、神戸で直属の先輩の山川(哲史)選手がいた中で、筑波大のレベルの高さを経験しました。
自分は体育のスポーツの推薦ではなく、AC入試という国際大会の実績で評価される入試で入りました。推薦枠は枠が決まっているんですけど、(AC入試の条件となる)U-16のワールドカップの最終予選を兼ねたアジアカップを優勝できたので行けました。
――筑波大蹴球部のレベル、環境はいかがでしたか。
それが(大学に)入ったときにコロナが流行しました。(2020年)2月のU-18代表のスペイン遠征に、早生まれで帯同しました。それからしばらくしてからなので、筑波に来た時期は遅かったです。そのときは新チームがほとんど出来上がっている中で来たので、どうなるかと…。
それでも自分の中では神戸アカデミーを卒団したときから、「1日でも早くプロになりたい」と思っていました。筑波で1年から活躍して、行けるタイミングがあればいつでもプロに行きたい思いはずっとありました。
宿敵明治との奇妙な縁
関東1部リーグデビュー戦は当時の大学サッカー界で最強と称された明治大が対戦相手だった。当時最終学年のDF常本佳吾(スイス1部セルヴェット)を筆頭に、12選手がJリーグ内定を勝ち取った世代を有する強豪と激突して山内は衝撃を受けた。そしてときを経て大学最後の関東1部リーグ戦の相手も明治大との一戦だった。
――関東1部のレベルは非常に高いですよね。
はじめはリーグ戦が4月に行われる予定でしたが、コロナによって夏の開幕になり、僕らは7月末ぐらいに初めて明治大学さんと試合をしました。そのときの明治さんは関東1部を優勝した大学で、4、5冠した次の代でした。
めっちゃ強かった明治さんと初めて試合をしたときに、大学サッカーをちょっとナメていたというか、こんなにレベルが高いのかというか…。「みんなこういうところでやっているんだ」というところから始まりました。
1年目は7月開幕で年内までに全試合を終わらせる日程だったので。とにかく来る試合、来る試合をこなすしかなかった。その開幕(明治大)戦は1年の自分にとって1番衝撃でした。
――衝撃を受けたのは、プレースピードと強度の部分ですか。
はい。1番初めに明治大学さんとやれたことは、自分にとってすごく大きかったと思います。全然関係ないですけど、1年の初戦が明治さんで、4年の最後のリーグ戦の相手も明治さんと試合ができました。なにか縁みたいなものはあるのかもしれません。
――最後の明治大戦は1-0で勝ちましたね。最初に衝撃を受けたチームを倒す。漫画みたいですね。
それが僕の明治大学さんに勝った初めての試合でした。筑波としては去年新人戦では明治大学さんに勝てたんですけど、自分が試合に出ているときに明治さんに勝ったことがなかった。そこで勝ったことは特別というか、そういう感情はありました。
そういうストーリーというか、そういうものがあったのかなと終わってから思いました(笑)。
――インカレでも明治大と対戦する可能性がありますね。
そうですね。準決勝かな。トーナメントは僕も目の前の試合のところしか見てないので分からないんですけど、また彼らと試合ができたら…。
どこも強いのでどこが来るか分からないですけど、自分たちも勝って、明治大学さんも勝ってまた試合がしたいです。(小学校時代同じチームだった)太田龍之介選手がいる特別な相手でもありますし。
先輩たちの背中を見て
筑波大蹴球部は三笘薫(プレミアリーグ・ブライトン)、山川哲史(神戸)と並外れた選手を数多く輩出してきた。2学年上の角田涼太朗(J1横浜F・マリノス)、山原怜音(J2清水エスパルス)、加藤匠人(J1柏レイソル)から受けた刺激が成長につながった。
――筑波大では三笘選手、山川選手と偉大な選手が多くいますけど、OBや先輩の背中を目指してやってきましたか。
その二方とは入れ替わりなので分からなかったですけど、小井土監督やその当時の先輩から話を聞いて「やっぱりすごかったんだな」と。
2学年上に角田選手、山原選手、加藤選手と、Jに行った先輩方もたくさんいました。チーム内の先輩も一緒ですけど、「負けない」というか自分が試合に出るためにとか、そのために必死でやっていたところがあるので、いつか一緒にできればいいなと思っていました。チームの目の前の人たちに負けないようにやっていました。
――高校から直属の先輩である山川選手はどのような存在ですか。
筑波大学に(練習に)行くとなったときに、山川選手がいることは知っていました。筑波大の練習参加に行ったときが初めましてだったので、ご飯連れて行ってもらったりとご馳走になりました。
筑波に行くと決めてからも家探しのことや、「筑波にはこういうところがあるよ」みたいな話を相談させてもらいました。
入学した後も神戸に行ったときに「筑波どう?」と筑波の結果を気にしていて、「筑波の小井土さんはどんな感じ?」という話をしたりします。すごくコミュニケーションを取ってくれます。
ただ練習のときは一選手としていろいろアドバイスをもらえるので、神戸に行ったときも助けてくれる人だと思っています。
――筑波は優秀な学生さんが多くいます。学業も忙しそうですね。
僕らの代はコロナとぶつかったので、オンデマンドの授業が多くて、なかなか対面授業ができませんでした。そこで多くの人が経験したような学生生活とは、異なる特殊な生活ではありましたけど、体育専門学部なので体のことを学んで、生理学的な観点からなどいろいろな観点から自分のパフォーマンスにつなげられることがすごく良かったです。学ぶこともサッカーにつながっていたので、すごく良かったと思います。
――いま取り組んでいる卒業論文のテーマを教えてください。
卒論のテーマはサッカー研に入っているので、サッカーについてのことです。ちょうど書いている途中ですけど、自分は「筑波に来るか、トップに上がるか」で悩んだこともあるので、高卒の選手がJリーグクラブに行ってからどうなっているかとか。
大学の選手が例えばどのカテゴリーに行っている選手が多くて、その選手たちはどうなっているのかについての卒論をやろうと思っています。
ちょっと前に高嶺朋樹さん(J1柏レイソル)がやった論文を、自分でアレンジしてというか、そういうテーマでやろうと思っています。
神戸への帰還
昨年3月31日に2024年シーズン神戸加入内定が発表された。大学2年終盤での早期内定。この時点で大学サッカー屈指の司令塔と複数関係者が絶賛するほどの存在だっただけに、神戸への帰還は既定路線といわれていた。内定の瞬間を山内が振り返った。
――大学2年の終わりに神戸から2024年シーズン加入内定のオファーを受けました。経緯を教えてください。
ちょっと語弊があるかもしれないですけど、筑波に来たときは神戸を数あるチームの1つと思っていました。でも練習参加に行って、試合も見ていたので、(練習参加に)行けば行くほど「(神戸)行きたい」と思うようになりました。
選手の質や環境と、Jリーグから見ての神戸の価値はすごく高いです。自分も本当に行きたいと思いました。ちょっと早かったですけど、あの時期に決まりました。
――内定はいつの練習参加を終えて決まりましたか。
2年の秋です。2年のチームが総理大臣杯に出ているときに、僕と筑波の田村蒼生選手の二人で、U-20代表のパリ・オリンピックを目指す初めの活動に呼ばれて、活動が終わってから神戸の練習参加に行ったタイミングでそういう話になったと思います。
――高校時代の悔しさもあったと思いますが、内定が決まった瞬間はどのような心境でしたか。
大体内定が決まる時期は早くても大学3年だと思っていた中で内定を受けたので、びっくりという感情が強かった。(当時は)なかなかうれしさはなかったですけど、その場にいた方が強化部長の栗原(圭介)さんと相模原のスポーツダイレクターの平野(孝)さんがいました。平野さんは(高校当時の)自分が「トップチームに上がれないよ」と言われたときのアカデミー部長で、その(結果を告げられた)部屋にいた方でした。
栗原さんも兄が中1のときの伊丹の監督でした。そういう方々に(内定を)伝えられたので、びっくりしました。この時期で言われて、筑波へ行って良かったと思いました。
――内定を受けてから意識の部分で変化はありましたか。
(高校時代に)トップに上がれなかったときのほうが変わったと思います。筑波に行く直前は自分がこれから先どうなるかも分からなかったです。
この4年間で自分の価値を見出すためにどうしようかという中でずっとやってきて、それが評価されてなので、自分がやってきたことをこのまま続けます。
あと行くチームも決まったからそこで力になるために、いまからやれることをやる準備ですね。
プロ道ではなく筑波大のために
国立大の筑波大蹴球部は私大と違って選手の意向を尊重する傾向にある。角田は大学4年次に、森海渡(J1柏レイソル、現J2徳島ヴォルティスに期限付き移籍)は大学3年次に蹴球部を退部してプロ入りした。
山内は入部当初は「1日でも早くプロになりたい」と振り返っていたが、プロ入りをせずに筑波大蹴球部に残り続けた。
――最初に「1日でも早くプロになりたい」と話していました。角田選手、森選手は蹴球部を退部してプロになりました。でも山内選手は蹴球部でプレーを続けています。4年間で心境に変化がありましたか。
お二人が早くプロに行って、活躍している(森)海渡くんがいるし、(角田)涼太朗くんもマリノスで試合に出続けている中で、自分にとっても刺激にもなっていたので、すごく悩んだところではあります。
ただ僕が入学して筑波でまだ結果を残せていなかった。筑波に来てから出会った人、いままで出会った先輩方と触れ合う中でも自分の考えも少しずつ変わっていきました。このチームでなにか結果を出したいという気持ちが1番でしたし、まだ行くべきタイミングではないと去年やその節々で思うことがありました。
――小井土監督がプロに行くのではないかと少し心配していたとお聞きしました。蹴球部にタイトルをもたらすために主将を名乗り出たのでしょうか。
小井土さんとは去年1年間、自分の来年の進路についていろいろと話しました。小井土さんの中には、そういう想いもあったといまはすごく理解できます。いろいろと悩んだ中で相談させてもらいました。
最終的には自分で筑波に残ると決めたからには、主将をやるからには結果を出したい。自分が主将になるタイミングに関していうと、3年間いろんな先輩に筑波で出会って成長させてもらえた。チームのためになにかしたい中で自分のやるべきことをやるために、チームを引っ張りたい想いよりは、残るならキャプテンをやりたいと思いました。
筑波は部員同士で(主将を)決めるので、部員に「やれるならキャプテンやりたいと思っている」と話をした記憶があります。
――筑波OBと話すと「俺は筑波でサッカーできて良かった」とよく話しますね。
多分僕はどちらかというと、筑波に来て成功した部類に入っていると思います。成功した部類になると思うので、こういうことを言っていると思いますけど、例えば筑波に来たけど結果的にプロになれなかった人が言う言葉はまた違うと思います。
それがどういうものなのかは自分もちょっと気になりますけど。確かに自分は筑波に来るときも山川選手や、相談できる範囲の人に「筑波はどうですか?」と聞いたときに、「筑波はいいよ」という人もいます。
実際本心かどうか分からないですけど、チームの毎年4年の人たちが最後に話をするときに、「思い通りには行かなかったけど、後悔のない4年間だった」という人は結構います。それはなにか筑波ならではなんだと思います。
――地域リーグで活躍している筑波OBの選手もそういう話をしていた方がいましたね。環境がいいのでしょうか。
もちろん環境もあると思いますけど、筑波で出会う人が大きいと思います。そこでいままでは築けないような関係性になる仲間もいますし、そういう人たちと出会えたからこそ、みんなそう言うんだと思います。
小井土監督は「早期に退部してプロの世界でチャレンジすることが異例です。ただ先に辞めた森、角田は4年間で卒業しています。周りの部員からも応援されて送り出されなければそれは認めることができないと話していましたので、周りから納得された状態で出ています。山内はそういう選択をしてもおかしくないぐらいの力があると思う。彼自身はそうするかとちょっと思っていましたけど、今季が始まるときに自分でキャプテンをやると決めた。こっちで筑波のために今年1年プレーすると覚悟を決めて今シーズンを始めています。それはプレーに表れているし、普段のかける言葉にも表れている。彼がいたから今年は安定して1年間チームとしてやれている。「残ってくれてありがとう」という言い方はちょっと変な感じもしますけど、いてくれたことで助けられたと思います」と感謝した。
人としても成長できた筑波大蹴球部
筑波大では選手としてだけではなく、人としても大きな成長を遂げた。
小井土監督は「(入部当初は)ある面子供な選手、ある面まだ幼い選手だと思いました。プレーが落ち着いているわりには一方で淡泊な面や、プレーにムラがありました。今年はキャプテンという役割になってチームを束ねるときに、彼なしでは考えられないぐらいです。チームの苦しいときには1番走るし、どんなときでも冷静にやる。ゲームの流れを読んでプレーすることは昔から変わっていませんが、それが研ぎ澄まされてきています」と絶賛した。
――森選手、角田選手、山原選手がJリーグで活躍されています。刺激は受けていますか。
大学で一緒にプレーしているときから、やっていて本当にすごいと思うことはいっぱいありました。でも全員に言えることは「できることが多い」ことですね。自分が勝手に分析して申し訳ないですが、活躍を見ていて自分もできることを増やさないといけないと思いました。
それこそ3人とも大学のときから練習を毎日全力でやるんですけど、その先のことを考えながらやっている印象があったので自分もすごく学びになりました。筑波の後輩や同級生の仲間もそうですけど、みんな練習やいろんなところで「先のことも考えるけど、まずは目の前のことをやる」みたいな。
いままで自分は楽しければいいというか、毎日ボールを追っかけていればいいと思っていたところがありました。(考えながら取り組むことを)筑波に来て学んだと思います。
――競技、プレー面で伸びた部分を教えてください。
結構質問されることがあるので答えるときはちょっと難しいです。僕が思う答えは「来年プロに行った世界にある」と思っています。僕がここに来て成長したことをいくら言っても来年それが出せなかったら意味がないです。
高校のユースのときに見ていた自分と来年見る自分がどう変わって、「成長したんだな」と思ってもらえるかは、自分自身もそうですし、周りの方も来年そうならないと分からないなと思います。
自分のなにが良くなったかというのは、来年プロの世界に入って分かると思う。来年にならないと答えは分からないなので、いまは答えられないです。
――人間的に成長したところは。
1番は人間的に成長したことがほとんどです。小井土さんにはよく1年のときはガキというか、「ワガママなヤツが4年でこんなになると思わなかった」と冗談半分で言われるんですけど(苦笑)。
それがもうすべてというか。1年のときは自分さえ良ければなんでもいいと思ってサッカーをしていたけど、いまは応援してくれる部員、筑波大にずっと支援して関わってくださる人たちのために自分たちは立っています。
そういう方々と一緒にというか、そういう方々の分まで戦わないといけないと思わせてもらっています。
いままでは自分のためにサッカーをしていたけど、いまはまだそのときに比べたら誰かのために、応援してくださる人たちのためにサッカーをするべきなんだと、プロになる前に思わせてもらえたことがすごく良かったと思います。
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次回はアジア大会や関東学生1部MVP、キャリアの青写真、大学最後のインカレへの決意を語る。