結合双生児の分離手術で1人が確実に命を失う… 執刀医は”殺人罪”に問われるのか

分離手術をすると一人が死んでしまうとき、医者は殺人に問われるのか(EKAKI / PIXTA)

手術をしなければ命が絶たれる。だが、メスを入れることによって、別の命を奪うことになるーー。まさに究極の選択といえる状況で、司法はどんな判断を下すのか。

生後1ヵ月の結合双生児の女児の運命をめぐる悲痛な事件。その時、両親はどんな決断をし、医師はどう対応したのか…。

殺人は、いつの時代も小説や映画ではテーマとして引っ張りだこだ。超えてはいけない一線を超える人間の心理に、多くの人が興味を持たずにはいられないからだろう。

そうした感性による各々による殺しの分析があるとして、実際に罪として裁く際には、法律によって適正な判断がなされる。「裁判官がやることだ」、と他人事に捉えてはいけない。裁判員制度(2009年5月~)では、一部重大な犯罪において、国民が裁判員として有罪か無罪かを審理する。

「自分事」と考えたとき、より正確に殺人の背景を知り、殺人にも”種類”があることを少しは学びたくならないだろうか。そうした教材はないに等しいが、イギリスの現役弁護士、ケイト・モーガンが、殺人という罪が規定されゆくプロセスを実際の犯罪を交え、興味深くまとめている。

最終回となる今回はその中から、”命を救う殺人”はありか、というなんとも悩ましく、倫理的にも難しいテーマを取り上げる。

(#4/全4回)

※この記事はケイト・モーガン氏による書籍『殺人者たちの「罪」と「罰」』(近藤隆文・古森科子訳、草思社)より一部抜粋・構成しています。

結合双生児の分離手術で一人が確実に命を失う場合、手術は”殺人”にあたるのか?

2000年、控訴院(イギリスのイングランドおよびウェールズの司法制度の中で、連合王国最高裁判所に次ぐ第2の上級裁判所)は生後1ヵ月の結合双生児の女の子の運命をめぐる悲痛な事件を審理している。双子はジョディとメアリという仮名で呼ばれ、この事件は世界じゅうで大きく報じられた。

治療にあたっていた医師たちは、双子を切り離す手術をしたいと考えていた。手術しなければ予後は暗澹とし、ふたりともほんの数ヵ月のうちに死ぬだろう。だが手術をしても、それはそれで恐ろしい結果となる。 赤ちゃんの血液供給や内臓の構造上、ふたりのうち体力のあるジョディしか手術後は生きられない。メアリは自分を生かしてくれている姉から切り離され、直後に亡くなる。

家族は手術の判断を拒否

家族にとってよい結論はなく、あるのはジョディにとってさほど悲惨でないものだけだった。 両親の考えでは娘たちの状態は神の御業であり、子供のひとりを救うためにもうひとりが死ぬことを決めるのは自分たちではない。だから病院が手術をすることを承諾しなかった。そこで病院側は裁判所に、家族の同意がなくても手術を実施でき、このような状況では違法ではないとする裁定を求めた。

メアリとジョディのケースで犯罪の審理にかけられた者はいない。それでも、医療チームの求めた手術を合法と認める命令を与えるために、裁判官は手術が非合法とみなされる状況はないか検討しなければならなかった。

外科医は謀殺罪に問われるのか? 裁判所が下した決断

違法行為を是認できる法廷などない。手術が行なわれれば、 間違いなくメアリの死がもたらされる。そのため裁判所は、外科医が謀殺罪に問われる可能性を考慮し、その際、緊急避難の理論的な抗弁を適用すれば、手術の潜在的な違法性を回避できるか否かを見極めなければならなかった。

この概念にかかわる根本的な問題は、1884年のリチャード・パーカーの死に関して検討されたときから変わっていなかった。双子の裁判でブルック判事も述べているとおりだ。

「私たちは、生命に対する権利をほとんど最高の価値と考えており、ほかの生命を救うため、あるいはおそらく大きな痛みや苦痛を避けるため以外の目的で、人を殺すことが正当化されることはほとんどないだろう。意図的な殺人に対する反発があまりにも強いため、功利主義的な理由を考えることができないのだ」。

双子の利益バランスを考慮し、「手術を合法」と判断

ダドリーとスティーヴンズの事件の影響については、裁判官の間でも議論されたが、最終的には、船員たちの殺人罪の有罪判決を、メアリとジョディのケースに適用して、手術を違法とすることはできないと判断した。

彼女たちの利益のバランスを考えると、メアリの命を犠牲に してでもジョディの命を救うために行動することが合法的であると判断したのだ。手術はほぼ 一日かけて行なわれ、裁判所が判決を下した直後に実施された。メアリは手術終了後、しばらくして亡くなった。ジョディは家族と一緒に健康な生活を送っている。

【まとめ】

今回、ケイトの最新の著作から4つのトピックスを紹介した。まずいえることは、多くの人が「殺人」について、実はよくわかっていないということだ。

「人を殺すこと」とは認識している。だが、それだけのことでは決してない。入念に計画を立てて殺す場合もあれば、突発的に殺してしまう場合もある。そのつもりはなかったが、結果的に死んでしまったというケースもあるだろう。

殺人と一口にいっても、その背景や状況によって、種類が異なり、罪としての重みが異なるのだ。昨今はSNS等で、情報の文脈が切り取られ、目立つ部分だけが露出されがちだ。それが人殺しに関することなら、「殺人」は独り歩きを始め、負のオーラをまといがちになる。

大事なことは、殺人は人間が一線を越えた先にあるものであり、だからといって、常に極悪とは限らないということだ。もちろん、どんな形でも罪を償う必要はある。

一方で自分が陪審員に選ばれたらどう判断するだろうか。常にそうした視点を持ち、「殺人」と向き合う。それが、人殺しについてより理解を深めることであり、適正に裁くことにもつながり、ひいては殺人の抑止につながる。

小説や映画の世界で殺人に触れるのも大いに結構。だが、もう少し違う視点で、より有意義に殺人と向き合おうと考えているなら、英国の法律がベースではあるものの、この本は大いに参考になる一冊といえる。

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