「府中市 由来碑」のおかげです【駅ぶら】06京王電鉄 京王線145

※2023年8月撮影

トップ画像は、「分倍河原駅」からの【駅ぶら】で訪れた「光明院坂」。その「真言宗 梅花山光明院」というキレイな寺号のお寺がありました。

山門の前に「六地蔵」。お寺のサイトに拠れば、山門は安政五年(1858年)の建立。戦前は茅葺き屋根だったそうです。

「六地蔵」は昭和43年(1968年)の建立。平成7年(1995年)にこの場所に移されました。

※2023年8月撮影

「庚申塔」がありました。上部の「日月」、「青面金剛像」もしっかりしています。下部には「三猿」。残念なことに側面の文字が判読出来ず、造られた時期はわかりません。

※2023年8月撮影

坂を下りると「府中市由来碑」の「光明院坂」がありました。

※2023年8月撮影

書かれていた内容は、毎回勉強になるのでとてもありがたいです。

「この坂道は、普通分梅道あるいは鎌倉街道と呼ばれる古街道です。沿道には、浅間神社、八雲神社、光明院といった由緒ある古寺社が点在しています。坂の名も真言宗光明院に由来しています。別名を「根っ子坂」ともいわれますが、これは以前道が荒れていたころ、道の西側に木の根がわだかまっていたことによるといわれます。この坂下に広がる平地一帯は、元弘3年(1333)5月に新田義貞と北条泰家が合戦した分倍河原の古戦場として有名です。」

道を渡ると同じく「府中市由来碑」の「光明橋」がありました。

※2023年8月撮影

この様に記載されています。「ここに、市川(府中用水)に架かる光明橋がありました。橋の名は、光明院の寺名に由来します。この辺りの市川の流れは美しく、小魚の種類も豊富で夏には蛍の名所であったそうです。」

※2023年8月撮影

市川は、「光明院」のサイトによれば「御狩場道から府中第三小学校周辺まで続く遊歩道は、「市川」と呼ばれる小川が流れていました。」

正に目の前の「都道18号線」の場所に「市川」が流れていた様です。黄色い矢印が「光明橋」の「府中市由来碑」。あそこに橋が架かっていたのでしょう。

※2023年8月撮影

写真を撮った背後に「府中市由来碑」の「分梅」があります。

※2023年8月撮影

これがまた興味深い内容でした。

※2023年8月撮影

「分梅(ぶばい)は現在の分梅町××××の一部(鎌倉街道=分梅通り沿い)に集落の中心があった村落です。この集落は本町に属しており、「新編武蔵風土記稿」(幕末の地誌)には「本町」の小名としてその名が見えます。分梅はもとハケ上の上分梅(八雲神社辺り)に集落の中心がありましたが、多摩川の流れが南に移ったあと分梅河原に進出したといわれています。古くは「分倍(陪)」や「分配」の字があてられ「ぶんばい」と呼ばれていたこともあります。近世以降には「分梅」が多用されています。

地名の起こりは不明ですが、この地がしばしば多摩川の氾濫や土壌の関係から収穫が少ないために口分田を倍に給した所であったという説もあります。」

※上記××××は碑文が削られて判読出来なかった部分です

「都道18号線」、つまり「市川」が流れていた跡を駅に歩いていたら「石橋供養塔」がありました。

※2023年8月撮影

なかなか立派なものです。でも達筆過ぎて筆者には読めません。

※2023年8月撮影

「光明院」のサイトに記載がありました。「慶応4年(1868)建立」と書かれています。

では分倍河原駅に戻ります。

(写真・文/住田至朗)

※駅構内などは京王電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。

※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。

※参照資料

・『京王ハンドブック2022』(京王電鉄株式会社広報部/2022)

・京王グループホームページ「京王電鉄50年史」他

下記の2冊は主に古い写真など「時代の空気感」を参考にいたしました

・『京王電鉄昭和~平成の記録』(辻良樹/アルファベータブックス/2023)

・『京王線 井の頭線 街と駅の1世紀』(矢嶋秀一/アルファベータブックス/2016)

© 株式会社エキスプレス