世界最高クラスの才能を生かせなかった「消えたサッカーの天才」4名

サッカーでは常に若手選手に期待が集まるもので、ファンはチームの未来を担うであろうタレントに夢を見る。

しかしながら、すべての才能ある選手がそのまま順調なキャリアを歩んでいくとは限らないもので…。

今回は『thesporting』から「世界最高クラスの才能を生かすことができなかったワンダーキッズ4名」をご紹介する。

セオ・ウォルコット

クラブでの成績:563試合132ゴール

代表での成績:47試合8ゴール

16歳でサウサンプトンのトップチームにデビューしたセオ・ウォルコットは、順調に成長すれば世界の頂点を極めるアタッカーになるはずだった。しかし、多くの人々が期待したレベルには到達することができなかった。

サウサンプトンで史上最年少ゴールを決めるなど高い得点力と圧倒的なスピードを見せ、そして数カ月後にはアーセナルへ移籍。しかもプレミアリーグで定着する前に2006年ワールドカップのイングランド代表でメンバーに選ばれ、世界に驚きを与えた。

しかしながらアーセナルでのキャリアはまさに紆余曲折。スピードは素晴らしいものがあったものの、得点力や一貫性に欠けており、ストライカーとしてもウイングとしても中途半端な存在であった。ウォルコット自身は最前線でのプレーを求めていたが、ヴェンゲル監督がストライカーとしての才能を高く評価していなかった。

もし彼にティエリ・アンリのようなシュート技術があれば…あまりにも惜しい選手であった。

アドリアーノ

クラブでの成績:300試合137ゴール

代表での成績:48試合27ゴール

キャノン砲のような左足のシュート、そしてあらゆるディフェンダーを弾き飛ばす圧倒的なフィジカル。重戦車のようにゴールへと突き進むパワーと貪欲さ。あらゆる点において、彼はストライカーとしての能力を高いレベルで揃えていた。

ブラジルの伝説的な点取り屋であるロナウドとおなじインテルで欧州でのスタートを切り、2004年のコパ・アメリカで得点王となり、次年度のコンフェデレーションズカップでも5ゴールを決めて優勝に導いた。

ところが、その中で彼は最愛の父親を亡くした。それがアドリアーノに与えた影響は計り知れないものだった。電話で死去を知らされた彼は大きな叫び声を上げ、その後徐々に精神を壊し、うつ病やアルコール依存に苦しむようになった。

それはなぜか。アドリアーノがサッカーをしていた理由は「育ててくれた父親に誇りを与えるため」だったからだという。モチベーションを失った彼は生活が荒れ、その才能を生かす機会を手放してしなった。

ボヤン・クルキッチ

クラブでの成績:398試合81ゴール

代表での成績:1試合0ゴール

リオネル・メッシよりも3歳年下のボヤン・クルキッチ。バルセロナの下部組織では凄まじい成績を残し、「メッシを超える天才」と高く評価された。小柄で技術が高く、そして得点力に優れる。まさにラ・マシアの系譜を継ぐ人物だと。

17歳と19日でトップチームにデビューし、メッシが持っていた最年少記録を更新。1990年代生まれの選手として初めてチャンピオンズリーグでゴールを決めた。そしてデビューシーズンで10ゴールを決め、ラウール・ゴンサレスの記録を更新した。

だが、残念ながら彼のキャリアにおいてはこれが頂点であった。スペイン代表にも選ばれたものの、そのプレッシャーに耐えられず不安障害やパニック障害を患ってしまったのだ。さらにメッシ、ビジャ、ペドロが彼のレギュラー定着を阻んだため、2011年に退団を余儀なくされる。

それからは世界の様々なクラブを渡り歩くことになったが、残念ながらメッシを超えると言われたポテンシャルを取り戻すことはできず。今年32歳で現役を引退することになった。

アテム・ベナルファ

クラブでの成績:395試合73ゴール

代表での成績:15試合2ゴール

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アテム・ベナルファは気まぐれな才能に恵まれた天才だった。その緻密なボールコントロールとドリブル能力、そして素晴らしいシュート技術は最大の強みだった。状態が良ければ誰にも止められることはなかった。ところが彼のキャリアの問題は、ほとんどの場合彼のメンタルが正しい状況にないということだった。

12歳でフランス国立アカデミーのクレールフォンテーヌに入った彼は、チームメイトと激しい衝突を繰り返しながらも圧倒的な才能を見せつけ、3年後には王者リヨンに加入することになる。

そしてプロデビューを果たし、素晴らしいスタートを切ったものの、セバスティアン・スキラッチとの対立によって2008年に退団。その後マルセイユでも多くのトラブルを起こし、フランス代表ではディディエ・デシャン監督との関係が悪化。その後渡ったイングランドでも負傷や契約問題、練習ボイコットなどで話題を集めた。

後にニースで復活の兆しを見せたものの、それが認められて移籍したPSGでは例によって周りと上手く行かず。結局のところその2年間でインパクトを残せず、クラブをハラスメント行為で訴えつつ退団していった。

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