絶品!浦和のうなぎ、受け継がれる一品 かまどで“秘伝のたれ”作る「中村家」は創業86年、最盛期は50店が営業 参勤交代の大名にも評判だった 浦和最古「山崎屋」も代々ずっと愛される味、食べ比べおすすめ

中村家のうな重。紀州備長炭でじっくり焼き上げる

 埼玉県庁通りに店を構えるうなぎ屋「中村家」(さいたま市浦和区高砂)。初代の大森林蔵が1937(昭和12)年に店を開き、創業86年を迎えた。林蔵は、浦和駅西口のさくら草通りで明治初めに創業した本家の中村家で20年以上奉公し、のれん分けを許された。

 洋食店のコックをしていた2代目の好治(81)は林蔵の死後、26歳の時に婿入りして店を継いだ。中村家秘伝の「辛めのたれ」は、初代から教えを請うことはかなわなかった。しょうゆ瓶に1本だけ残されていたたれ、仕入れ記録、義母や他店でも習い、試行錯誤して伝統の味を仕上げた。

 さいたま市の伝統産業に認定されている浦和のうなぎ。「誇りに思って、たれと焼きの伝統を守りたい」と語る好治は、93年に浦和のうなぎを育てる会(現協同組合)を立ち上げ、代表理事として普及活動と後継者育成にも力を注ぐ。

 好治は林蔵が死去した年齢と同じ58歳で、3代目の長男啓好(ひろよし)(54)と次男克敏(52)に店を任せた。長男が焼き、次男がたれ作りを担う。かまどにまきをくべ、昔ながらの方法でのたれ作り。克敏は「(漫画の)北斗神拳のように一子相伝。何を変えたとしても、伝統のたれは受け継いでいく」と声に力がこもる。

 4代目としての期待を背負うのは克敏の長男央晴(ひさはる)(22)。埼玉栄高校時代に重量挙げ競技で活躍したが、卒業後に料理専門学校で1年学び、東京・日本橋のうなぎ専門店で修業中。現在は4年目で、串打ち、焼きなど全てこなす。店を継ぐことについて「プレッシャーは自分のやる気につながっている。楽しみの方が大きい」と頼もしい。

 創業100年を目指す克敏は「つなげていくためには後継者が肝。親子3代そろうのは幸せなこと」と息子に信頼を寄せる。孫に早く戻ってほしいと願う好治も「そう思ってくれているので、安心している。歴史あるのれんを絶やすわけにはいかない」。

■脈々と受け継ぐ味

 旧中山道沿いの「山崎屋」(浦和区仲町)。江戸時代後期の弘化年間(1844~48年)の浦和宿絵図に「山崎屋平五郎蒲焼商」と記され、浦和で最も古い専門店として知られる。社長の椎名正幸(58)と常務取締役の浩文(54)の兄弟が店を守る。

 浩文は店を継いでいた兄に誘われ、32歳の時に大手ビール会社から実家に戻った。「うなぎ屋に生まれ、おじいちゃん、父親、兄がうなぎ屋。宿命的なもの」と語る。創業不詳としているが、絵図の記録から200年を見据える。「体力が続く限り続け、後継ぎにたすきを渡したい。自分の使命と思っている」(敬称略)

■さいたまの伝統産業

 浦和のうなぎの歴史は古い。江戸時代後期の「会田家文書」(さいたま市指定有形文化財・県立文書館蔵)には、浦和から江戸赤坂の紀州藩邸に、うなぎを献上したと記されている。浦和宿絵図には、山崎屋のほか、「三文字喜八蒲焼店」の名が残る。三文字は現存していないものの、両店は本陣近くに位置し、浦和のうなぎが参勤交代の大名や旅人にも評判だったという。

 浦和周辺には沼地や川があり、多くのウナギが生息していた。浦和市史によると、荒川や綾瀬川沿いでウナギやコイなど川魚漁を生業(なりわい)にしていた人がいたが、大正時代から戦後にかけて開発や農薬の使用によりウナギは激減した。

 浦和地区のうなぎ専門店は最盛期に50店程度が営業していたとされるが、後継者不足などを理由に減少。市は市内に45店、浦和地区に18店ほどを把握している。うなぎ好きの浦和の人たちはそれぞれ、ひいきの店があり、代々受け継いでいる家も多い。伝統の味を守る専門店は「浦和に来て、おいしいうなぎを食べ比べてほしい」と呼びかける。

 市は2008年4月、浦和のうなぎ、大宮の盆栽、岩槻の人形を伝統産業に認定。ガイドブックやホームページでの情報発信のほか、市立小学校3年生に毎年度、紹介する漫画を配布している。

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