モノレールの「聖地」の夢破れ…  幻の車両、横浜「ドリームランドモノレール」とは

横浜ドリームランドモノレール。「ドリーム号」と「エンパイア号」の2編成が運行されていた(横浜市史資料室所蔵)

 神奈川の廃線を巡る旅の中で川崎市電が存続期間25年の「短命」な路線だったと紹介したが、それよりもさらにずっと短命な路線が存在した。1966(昭和41)年5月2日に開通した、大船駅―ドリームランド駅間を結んだドリームランドモノレール(運営:ドリーム交通)である。

 同路線は、開業からわずか1年半後の1967(昭和42)年9月に運行休止となり、その後、復活することはなかった。もし、もう少し長く存続していたならば、1970(昭和45)年3月に湘南モノレール(大船―湘南江の島)が開通し、大船駅は運営会社も形式も異なる2つのモノレールを乗り換えられるモノレールの「聖地」になっていたのに……。多くの鉄道ファン、モノレールファンが、そんな「夢」を持っているようである。

 そもそもこの地になぜ、モノレールが敷設されたのだろうか。その理由として、「日本最大の遊園地」と称された横浜ドリームランド(横浜市戸塚区俣野町)が1964(昭和39)年8月にオープンしたものの、最寄りの国鉄(当時)大船駅から5km以上も離れており、アクセスの悪さがネックになっていたことが挙げられる。

 バス・タクシーだけでは輸送力が限られ、途中で国道1号線をクロスしなければならず、渋滞も予想された。従って路上交通と分離した別な交通手段が必要だったわけだが、丘陵地帯が広がる大船(鎌倉市)北部や横浜市戸塚区の西部に、通常の鉄道を敷設するのは不可能に近かった。そこで、簡易な構造物のみで建設でき、輸送力も比較的大きく、さらにゴムタイヤ採用により登坂力にも優れたモノレールが採用されることになったのである。

  当時はモータリゼーションの進展により各地で交通渋滞が問題となる中、地下鉄よりも安価に建設できるモノレールが脚光を浴び始めていた時期であり、日本の各メーカーは海外のモノレール先進企業と技術提携することにより、モノレールの技術導入と開発を図ろうとしていた。

 日立製作所は西ドイツ(当時)のアルヴェーグ式(東京モノレールなど)、川崎航空機(現・川崎重工)はアメリカのロッキード式(姫路モノレールなど)、三菱グループはフランスのサフェージュ式(湘南モノレール、千葉都市モノレールなど)の技術を導入。アルヴェーグ式とロッキード式は軌道桁(モノレールの線路)にまたがって走行する跨座(こざ)型モノレール、サフェージュ式は軌道桁からぶら下がって走行する懸垂型モノレールである。

 ドリームランドモノレール計画の入札には複数企業が手を挙げたが、採用されたのは東芝式だった。この東芝式はアルヴェーグ式をベースとしつつ、車体と台車を完全に分離したボギー連接台車構造にするなど、独自の改良を加えたものだった。東芝式が採用されたのは、先行開園した奈良ドリームランドのモノレールが好調だったからであろう。

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