命を突然絶たれた兄は、患者たちの「恩人」だった 大阪・北新地ビル放火殺人 遺志を継いだ妹が、2年たってやっと口に出せた「生きていてほしかった」

兵庫県芦屋市で開いたカフェで友人らと話す伸子さん=10月

 凍えるほど寒い日だった。2021年12月17日、伸子さん(46)は、兄・西沢弘太郎さん=当時(49)=が院長を務めるクリニックが火事になっていると知り、現場へ急いでいた。タクシーでは現場に近づけず、途中で降りて走った。周囲に張られた規制線の中に入ったが、兄がどこにいるのか、無事なのかどうかさえ分からない。自宅に戻るしかなかった。
 その日の夜10時ごろになって、母から電話があった。
 「お兄ちゃん、亡くなりました」
 ぼうぜんとしたが、両親を支えられるのは自分一人しかいない。「絶対泣いてはいけない。私がしっかりしなければ」。兄の遺体を確認するため警察署へ向かいながら、なんとか自分を奮い立たせた。悲しむ時間はなかった。
 26人が犠牲となった大阪・北新地のビル放火殺人事件から2年。現場となった4階の「西梅田こころとからだのクリニック」は心身の不調や発達障害などから職場で苦しむ人々が、社会に復帰するまで寄り添ってくれる「心の支え」となっていた。院長の弘太郎さんは患者から「恩人」と慕われる存在でもあった。
 「兄は患者さんたちのことを気にしているはず」。事件後、伸子さんは弘太郎さんの遺志を継ぎ、「悩む人を孤立させない」との思いで活動してきた。悲しみとも向き合い、事件から2年たって、初めて語ることができた本音とは。(共同通信=石田桃子、安部日向子)

火災現場となった大阪・北新地のビル=2021年12月17日

 ▽「また会える」突然覆った日常
 弘太郎さんと伸子さんは2人きょうだい。小さいころはプロレス技を掛けられたり、けんかをしたりもした。年齢が4歳離れていたこともあり、あまり会話は多くなかったが、お互いが結婚した後は年一回、正月に集まるのが恒例になった。仕事一筋だった兄は、家族で集まったときでさえ、同じ医師である父と仕事の話ばかりしていた。「来年もそんな正月が来る」「また会える」と当たり前に思っていた日常は突然、覆された。

伸子さんがいつも持ち歩いている兄・弘太郎さんの写真

 ▽「兄は患者さんたちのことを気にしている」
  事件の犠牲者は弘太郎さんを含むスタッフと患者計26人。火を付け、その後死亡した谷本盛雄容疑者=当時(61)=もクリニックに通っていた。
 クリニックは主に発達障害やうつ病、パニック障害などの患者を診察していた。休職中の人の職場復帰に向けた支援として集団治療を行う「リワークプログラム」を実施。弘太郎さんは優しく、患者の気持ちに寄り添い続けた。そんな院長の訃報に患者らは悲しみ、中には「自分に合う先生をまた見つけられるのか」「次の病院が見つからない」と途方に暮れる人もいた。
 伸子さんはふと思った。
 「兄はきっと今も、患者さんたちのことを気にしている。私に何かできることはないか」
 事件から2カ月が経過した2022年2月ごろ、兄のクリニックの元患者や支援者が集うオンラインサロンが開設されることを、報道を通じて知った。開設に向けて動いていたのは障害福祉サービスなどを手がける「障害者ドットコム」(大阪市)。
 すぐにこの会社を訪れると、その日のうちに代表の川田祐一さん(51)と会うことができた。何かに導かれているような感じがした。「診察や薬の処方はできないけど、話を聞くことならできる」。立ち上げからオンラインサロンに関わった。
 オンラインサロンでは元患者らのその日の心の状態や近況に耳を傾ける。
 「西沢先生は本当によく話を聞いてくれましたよ」
 「すごく親身な人でした」「ユーモアのある先生でした」
 弘太郎さんの思い出話に花が咲くこともあり、伸子さんは「献身的に患者さんを診てきたんだと思うと、自分の兄だけどすごい頑張ってきたんだろうなと思うし、兄がやってきたことの大きさを亡くなってから知った」。

顔や名前を出さずに取材に応じていた頃の伸子さん=2022年4月

 ▽「心の支えになりたい」
 活動を機に、伸子さんは多くの報道の取材を受けることになる。当初は顔を出さず「院長の妹」として匿名で応じていた。しかし、今春、オンラインサロンで知り合った元患者のふとした一言が、伸子さんの心に刺さった。
 「支援する側がオープンにならないと、される側は心を開けない」

顔を出して取材に応じる伸子さん=6月

 ああ、その通りだ。伸子さんはその後、顔と名前を出して取材を受けることになった。
 取材を受けながら活動を続ける根底にはこんな思いがある。
 「二度と同じような事件が起きてほしくない」
 谷本容疑者は、生活に困窮し孤立を深めた末に犯行に及んだとみられている。悩んでいる人の話を聞き、寄り添うことで「心の支えになるような〝居場所〟をつくりたい」。そのために心理カウンセリングや仏教の教え、考え方も学んだ。

オンラインサロンで出会ったクリニック元患者らと交流する伸子さん(中央)

 ▽生きていく上で、何かヒントを届けたい
 今春からは、兵庫県芦屋市にある公認心理師土田くみさん(58)のクリニックで月1回、お茶を飲みながらゆっくりと話ができるカフェを開催するようになった。
 「悩みはなくてもいい。気軽に立ち寄ってもらえる場にしたい」
 離れている人にも思いが届くようにと、スマホアプリ「stand.fm」で音声配信も始めた。チャンネル名は〝軽やかなる日々を〟と名付けた。毎週月、水、金曜日の3回、午前7時半に更新する。5~6分間の音声なら、家事をしたり、何か作業したりしながら聞ける。
 自宅の一室で一人、スマートフォンに向かい、一つ一つ言葉を紡ぐ。日々の出来事や、事件だけでなく日常の経験の中で得た気づきを話す。聞いてくれている人が生きていく上で、何かヒントになることを伝えたい。

仏教の教えを学び、僧侶となるための「得度」の儀式でお経を読む伸子さん=12月

 「できないことを考え続けるのではなく、何ができるかを考えてみることで心にゆとりが出てきます」
 「『大丈夫、きっとうまくいくよ』とか、言葉の持つ力をみなさんも周りに伝えていってほしい」
 今年10月中旬、友人の一人が、芦屋で開催した伸子さんのカフェを訪れた。長い主婦生活の間、自分だけに優しく語りかけてくれる存在はいなかったという。
 この友人は伸子さんに感謝の言葉を伝えた。「お弁当を作って、洗濯をして…淡々と過ぎていく生活の中で、伸子さんの配信は真摯に寄り添ってくれている気がしてすごく楽しみで、励みになっている。勇気づけてくれる存在です」
 伸子さんの目に涙が浮かんだ。自分は何かを成し遂げたいわけでも、立派なことを言いたいわけでもない。ただ、誰かのためになりたくて活動を続けてきた。「心の支えになれていたんだ」。友人の言葉を聞き、報われた気がした。

開いたカフェで、音響療法に使われる弦楽器「モノリナ」を奏でる伸子さん=9月

 ▽記者との対話、心の整理に
 ただ、弘太郎さんが亡くなったことが信じられない期間は長く続いた。そんな中でも多くの取材を受け、記者らとたくさん話をした。取材に対してこう答えることもあった。「自分の中では悲しいという感情を抱かずにきました。私はみなさんが思っているような遺族ではないですよ」。
 それでも話すことで少しずつ心の中の整理ができたという。「兄を思い出して泣くこともあります。泣きたいときは気が済むまで泣いて、次に進みます」。複雑に変化する感情を素直に受け入れられるようにもなってきた。事件が現実に起こったことなのだと実感するようにもなった。

詩を朗読する伸子さん=12月3日

 ▽「あなたに生きていてほしかった」
 「1年に一度、事件を忘れないためにご遺族や関係者が集まる場所としてコンサートをしませんか?」。伸子さんの友人の提案から、12月3日、大阪市内のホテルのイベント会場で事件の追悼コンサートが開かれた。友人がピアノを演奏したほか、伸子さんも音響療法で用いられる弦楽器「モノリナ」を奏でた。

 会場には犠牲者の人数と同じ26本の花が飾られた。事件は容疑者死亡により、裁判が開かれない。他のご遺族への連絡方法も分からないが、「何年先でも良かったら参加してもらいたい」と願いを込めて開催した。
 集まった観客約40人の前に立った伸子さんは、詩を読み上げた。これまで取材にも語ってこなかった弘太郎さんへの思いを綴ったものだ。

伸子さんが撮った空の写真。「兄がいるような気がして、よく空を見上げます」(本人提供)

 〈あなたがいなくなってから 私はいろんな質問を受けました 
でも言わなかったことがあります 思っていても口に出せなかった言葉です 
あなたに生きていてほしかった あんなことがなかったらよかった 
もっと先にあなたと思い出話をする予定だったから 
あなたに会いたいです 普通に会いたいです
これが私の本当の言葉です〉

 「兄ならどうするか」と問い、歩みを止めることなく活動を続けてきた。弘太郎さんはきっと近くで見てくれている。頑張りすぎだと心配しているかもしれない。それでもまだ自分にはやるべきことがあると感じる。「私にできる限りのことをやっていきたい」。伸子さんの詩は次の言葉で締めくくられる。
 〈またいつかきっとあなたに会える日まで 私はこちらで私らしく生きます 
どうかあなたを知る人を空から見守っていてください〉

【取材後記】
 私が伸子さんに初めて会ったのは、事件から1年以上がたった今年4月下旬。それ以来、取材や取材ではない時も含め、伸子さんと月1回程度会った。伸子さんはいつも「誰かのためになりたい」と考えており、私はその思いが実る瞬間に、幸運にも立ち会うことができた。伸子さんの涙を見ることはそれまで、ほとんどなかったが、その瞬間の彼女の涙に、これまでの歩みの苦労や思いの強さを感じずにはいられなかった。記事にすることで、改めて伸子さんの気持ちを受け止め、丁寧に伝えたいと思った。
 伸子さんの活動には、常に「ご遺族やクリニックの元患者さんにも届くように」という願いがある。今年初めて開いた事件の追悼コンサートを、伸子さんは今後もずっと、年に1回続けていきたいと思っている。「何年後でもいい。いつか『やっと来ることができた』という人が現れるのを待っている」。その思いが今後も少しずつつながっていくように、これからも伴走していきたいと思う。

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