90年代のアポなしバラエティ「進め!電波少年」と 猿岩石「白い雲のように」の青春  「進め!電波少年」から大ブレイク!猿岩石のデビュー曲「白い雲のように」を覚えているか?

新・黄金の6年間 ~vol.22
■ 猿岩石「白い雲のように」
作詞:藤井フミヤ
作曲:藤井尚之
編曲:松浦晃久
発売:1996年12月21日

「バブルへGO!! タイムマシンはドラム式」に出演した不遇時代の有吉弘行

僕は一度だけ、有吉弘行サンと映画で共演したことがある。

2007年2月10日公開の『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』(監督:馬場康夫)だ。広末涼子演ずるヒロイン・真弓がバイトするキャバクラ(現代のシーン)で、僕と有吉サンは隣り合うテーブルの客を演じた。当時、有吉サンはお笑いコンビ「猿岩石」を2004年3月で解散し、2007年8月放送の『アメトーーク』(テレビ朝日系)で毒舌芸人として再ブレイクする前の “不遇の時代”。撮影中、端役にも関わらず、監督の説明に真摯に耳を傾け、礼儀正しく振る舞われていたのを覚えている。

この時のロケは、劇中の設定通り、本当に六本木のスクエアビルで行われた。80年代、全フロアがディスコで埋まり、“ディスコの聖地” と呼ばれた同ビルは、2000年代に入ると、キャバクラやカラオケ店で占められるようになった。ちょうど映画が公開された年に老朽化で取り壊されたので、ギリギリのタイミングで撮影できたのはラッキーだった。

ちなみに、有吉サンと共演と言っても、彼は台詞のある出演者。僕は一介のエキストラに過ぎない。客前に出てきた真弓(広末涼子)の元気がないのを、同僚のキャバ嬢役の愛川ゆず季サンが「真弓、お母さん死んじゃったの」と周囲に明かすシーンで、1人バカ面を晒しているのが僕である。ご興味のある方はDVDなどでぜひ(笑)。

ミリオンセラーを獲得した「白い雲のように」

さて―― そんな有吉サンが、かつて森脇和成サンとコンビを組んでいた “猿岩石” が、本コラムのテーマである。奇しくも今日、12月21日は、今から27年前の1996年に、同コンビがミリオンセラーとなるシングル「白い雲のように」で歌手デビューした日にあたる。

 遠ざかる雲を見つめて
 まるで僕たちのようだねと君がつぶやく
 見えない未来を夢見て

作詞:藤井フミヤ、作曲:藤井尚之。言わずと知れた、元チェッカーズの実の兄弟コンビ。同曲を作った翌年(1997年)、2人は “F-BLOOD(エフブラッド)”なるユニットを結成する。ネーミングの由来は「藤井家の血」だという。

実はこの楽曲には、あの秋元康サンもプロデュースで参加している。そして、猿岩石は2曲目以降も秋元サンのプロデュースのもと、解散までシングル10曲とアルバム3枚をリリースした。作家陣は、高見沢俊彦、Bro.KORN、河村隆一、佐野元春、JUDY AND MARY(当時)のTAKUYA、そして―― 秋元康サンと、めちゃくちゃ豪華。猿岩石を「白い雲〜」の一発屋だと思っている人は少なからずいるが、実は結構、音楽業界では推されていたのだ。

一体、猿岩石の何が、それほど芸能人をも惹きつけたのか。言うまでもなく―― 無名の2人を一躍国民的人気者に仕立てたテレビ番組『進め! 電波少年』(日本テレビ系)の名企画「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」である。香港をスタートした彼らが、道中、怒ったり、泣いたり、喜んだりしながらも、ゴールのロンドンまでヒッチハイクの旅を、リタイアせずに成し遂げたからである。その “ドキュメンタリー” に、お茶の間のみならず、テレビのプロである芸能人たちも感動したのだ。

「電波少年」のコンセプトは “アポなし” である

元来、テレビとは作りものである。それはドラマに限らず、バラエティや情報番組、音楽番組、クイズ番組など多岐にわたる。ドキュメンタリーやニュースですら、ある程度の仕込みはあるっちゃある。例えば、時候ネタと言われる「今年初めての真夏日となりました」的なニュースは、決まって街中を半袖で歩く美人OLが登場するが―― ここだけの話、あれは仕込みのモデルである。

その点、『電波少年』のコンセプトは “アポなし” である。敢えてアポを取らず(取ったらロケを断られるため)、とりあえず現地に行って、ダメ元でチャレンジする。1992年7月5日の第1回放送では、松本明子サンが「憧れの227cmの岡山さんに会いたい」と、元バスケ選手の岡山さんに「高い高〜い」をしてもらうために、“アポなし” で住友金属の会社前に張り込んだところ―― 偶然、岡山さんが通りがかり、本当に「高い高~い」をしてもらった。彼女は嬉しさのあまり、泣きだした。その瞬間、同番組の土屋敏男プロデューサー(当時)は「勝てる」と確信したという。

土屋サンの発想の原点は、彼が若手時代にディレクターを経験した『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ系)にあった。同番組で総合演出のテリー伊藤さんに鍛えられたという。例えば、「早朝バズーカ」企画では、ターゲットの芸能人が就寝中の部屋に早朝、高田純次サンが忍び込み、目覚まし代わりにバズーカをぶっ放した。その時のターゲットの朦朧とした素のリアクションの面白さたるや。それを90年代風にアップデートしたのが “アポなし” 企画だった。

テレビ史上初の試み、アポなし+海外の旅

かくして、番組の前期―― 1992年から95年にかけて、『電波少年』は数々の名企画を生んでいく。

「渋谷のチーマーを更生させたい!」
「有名人の豪邸のトイレでウンコがしたい!」
「村山富市の長い眉毛を切ってあげたい!」
「アラファト議長とてんとう虫のサンバをデュエットしたい!」
「フリーメイソンに入会したい!」
「松村の本名を変えたい!」 ――etc

そして、1996年4月―― 土屋サンはそんな “アポなし” の上に、更に一翻乗せることを思いつく。それが “海外の旅” だった。先の「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」である。オーディションで選んだ猿岩石の2人を、何も内容を知らせず香港に連れていき、所持金10万円で「ユーラシア大陸をヒッチハイクで横断。ロンドンがゴール」と、彼らに告げたのだ。

同企画の何が画期的だったのか。―― 技術の進歩である。当時、SONYの「Hi8(ハイエイト)なるコンパクトな高性能ビデオカメラが登場して、世界中どこでも、ディレクター1人でテレビ用の撮影ができるようになった。それまでテレビのロケと言えば、カメラマンが大型のENGカメラを肩に担いで撮影したが、重さが10㎏前後もあり、長時間のロケや機動力が弱点だった。スタッフも最低でもディレクターとカメラマンの2人が必要だった。

それが、コンパクトなHi8のカメラだと、世界中、どこにでも出演者とディレクター1人で出かけられる。手持ちなのでスペースも取らない。ヒッチハイクの際も、ディレクターが助手席に乗り、後部座席の出演者を撮影できる。家庭用サイズなので、現地の人たちの警戒心も下がる。そう、アポなし+海外の旅―― それは、これまで日本人の誰も見たことのない、テレビ史上初の試みだった。

実は、こちらも先の『元気が出るテレビ』同様、元ネタがあった。1977年にスタートした『アメリカ横断ウルトラクイズ』(日本テレビ系)である。クイズ番組を謳いつつ、その実、同番組の合言葉 “知力・体力・時の運” が示す通り、それは北米大陸を横断しながらの悲喜こもごもの人間ドラマ(ドキュメンタリー)が売りだった。79年に日本テレビに入社した土屋サンが、そんな同番組に強い影響を受けたことは容易に想像がつく。伝統的に、ドキュメンタリー的な番組作りは日本テレビのお家芸だった。

新・黄金の6年間を体現した「電波少年」のコンテンツ

「新・黄金の6年間」という言葉がある。

1993年から98年にかけてエンタメの世界に新しい才能たちが台頭し、大ヒットを連発した時代である。テレビドラマはフジテレビの月9を筆頭に、視聴率25%超えが当たり前になった。音楽界は小室ソングが牽引するように、ミリオンセラーを連発した。そして、テレビのバラエティも『電波少年』がドキュメンタリー的な手法で、エンタメの世界を広げた。それは後に、“ドキュメントバラエティ” なるスタンダードとなり、世界的な “リアリティショー” ブームにも繋がる。そう、『電波少年』はその分野の先駆けだったのだ。

新・黄金の6年間を象徴するワードがある。 “スモール” “フロンティア”、そして “ポピュラリティ” だ。スモールとは、小回りの利く小さなユニットで創造的に動くこと。フロンティアとは、既成の概念に捉われずに新天地へ乗り出すスピリット。ポピュラリティとは大衆性、即ちベタ。ある属性の人たちのセンスを問うカルチャーではなく、誰もが共感できるクリエイティブを指す。

それを「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」に当てはめると、出演者とディレクター1人の最少ユニットはスモールそのものであり、ヒッチハイクで香港からロンドンへ旅する前代未聞の企画はフロンティア以外の何ものでもなかった。そして、映し出される出演者の人間ドラマは、お茶の間の誰もが共感できるストーリー。まさに、新・黄金の6年間を体現したコンテンツだった。

猿岩石はスターになると予言した秋元康

同企画は、1996年4月13日に香港をスタートした。開始1ヶ月ほどはさほど話題にならなかったが、一行がタイに入るあたりで、早くも土屋サンに電話をかけてきて「これは面白い。猿岩石はスターになる」と予言したのが、秋元康サンだった。その時、ゴールした後、自分が2人のデビュー曲をプロデュースすると、土屋サンと約束までしたという。その先見の明に改めて驚く。

同企画で最も過酷だったのが、インド編だった。この時、現地に応援に行って、自ら作った応援歌「旅人よ~The Longest Journey」を披露して、猿岩石の2人を励ましたのが、サンプラザ中野(現:サンプラザ中野くん)さんとパッパラー河合さんである。当初は土屋サンから「現地に応援に行ってほしい」とだけ言われたが、それまでのVTRを見返したら感動してしまい、自ら応援歌の作成を提案したという。

 強い風に今立ち向かってゆく
 遥か彼方を目指した旅人よ
 いつか再び君に出会うまでは
 どうかどうか笑顔を絶やさぬまま

この時、中野さんと河合さんはマイクもなしに、生歌と生演奏で同曲を披露した。猿岩石の2人は正座して聴き入り、歌唱中、何度も涙をぬぐった。同企画がハネたのは、このインド編からである。それは、旅と音楽の親和性が極めて高いことをお茶の間が知った瞬間でもあった。中野さんと河合さんは、スタートから半年後の96年10月19日放送のゴールのロンドンでも猿岩石を迎え、再び同曲を披露した。

どこか2人のその後の人生を暗示している「白い雲のように」

猿岩石のデビュー曲「白い雲のように」がリリースされるのは、その2ヶ月後である。初登場こそ23位だったが、発売4週目でトップ10入り。その後、彼らの旅のごとくロングヒットを続け、やがてミリオンを達成した。その歌詞は2人の過酷な旅を綴ったものだったが、今聴くと、どこか2人のその後の人生を暗示しているようにも思える。

 風に吹かれて消えてゆくのさ
 僕らの足跡
 風に吹かれて歩いてゆくのさ
 白い雲のように

旅と音楽の親和性は極めて高い。それは、人生の旅にも当てはまるのかもしれない。

カタリベ: 指南役

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