【佐橋佳幸の40曲】宮原学「GET READY」アメリカンロックをこよなく愛する奴らとの日々  人気連載!日本の音楽シーンを牽引し続けた名ギタリスト「佐橋佳幸の40曲」!

佐橋佳幸の40曲 vol.8
GET READY / 宮原学
作詞:宮原学・沢ちひろ
作曲:宮原学
編曲:宮原学・佐橋佳幸

忘れ難い思い出となった宮原学との共同作業

1986年6月、CBS・ソニー / FITZBEATからシングル「THE FIGHT」と同名ミニアルバムでデビューした宮原学。エッジの効いたパワフルな、しかし時おりフッと甘い色香を漂わせるボーカリスト、そしてアメリカンロックをこよなく愛するギタリストでソングライターだ。1988年のアルバム『SCRAMBLE』は佐橋佳幸が手がけた初期プロデュースワークの代表作のひとつ。けっして長い期間ではなかったけれど、佐橋にとって宮原との共同作業は忘れ難い思い出となっているという。

「最初に会ったのは『THE FIGHT』のレコーディングスタジオ。その時はアレンジャーさんの譜面があって、セッションギタリストとして呼ばれたの。学はまだ10代でさ。やりたいことははっきりしていたけど、まだ若いし、スタッフも一緒に試行錯誤していた時期。そんな時に僕がギタリストとして呼ばれたんです。なぜなら、彼のやろうとしていることが豪快なアメリカンロックだったから。だったら僕、でしょ(笑)」

アルバム「RUSH!!」にひそむ “UGUISSの逆襲” !?

時は1980年代半ば。ロックでキャッチーな世界観で当時のヒットチャートを席巻していたブライアン・アダムズやジョン・メレンキャンプといったボーカリストたちは日本でも人気を博していた。が、その路線を自分でも… という日本人アーティストとなるとまだまだ少なかった。スタジオミュージシャンの世界でも、そうしたアメリカンロック路線を得意とするギタリストは数少なかった。そこで佐橋が呼ばれるのは当然中の当然。

「スタジオで初めて会ったんだけど… まぁ、僕たちは、たちまちハモっちゃったわけですよ(笑)。学も自分でギター弾くしね。ロックとか、ギターとか、そういう共通言語でね、当時僕は、たぶん誰よりも彼の考えていることを理解できる相手だったと思う。で、僕らがハモってる様子を現場で見ていたスタッフが、だったら僕と組んだらいいんじゃないかと考えて。次からは僕がプロデュースやアレンジ面で大きく関わってゆくことになるんです。

彼の初フルアルバム『RUSH!!』でも何曲かプロデュースしたんだけど。あれ、僕の中ではちょっぴり “UGUISSの逆襲” みたいな感じもあってね。同じFITZBEATレーベルに在籍していたレベッカの小田原豊くんとノリさん(高橋教之)がドラム&ベース、キーボードに柴田(俊文)を呼んで。英語でコーラスを入れるので、山根麻衣&栄子姉妹にも来てもらって…。完全にロックバンドのアプローチ。シングルにもなった「FOUR-ROUND BOY」ではトッド・ラングレン率いるNazzっぽい感じをめざしたし(笑)。このアルバムはけっこう評判よかったんです。で、その次のアルバム『SCRAMBLE』では初めて全面プロデュースという形でやらせてもらうことになって…」

ダイナミズムに満ちたバンドサウンドをとことん追求

アルバム『SCRAMBLE』ではロックで、キャッチーで、ダイナミズムに満ちたバンドサウンドをとことん追求したい。そう考えた宮原は、アルバムのレコーディングからその後のツアーまで、すべて同じメンバーでやってみたいと佐橋に伝えた。が、前作に参加してもらった小田原と高橋はレベッカとしての活動で多忙。当然、ツアーへの参加までは望めない。そこで佐橋はシュガーベイブやセンチメンタル・シティ・ロマンスでドラマーを務めてきた大先輩、野口明彦に声をかけた。

「その頃、野口さんは麻衣ちゃんのバンドで叩いていたんだけど。シュガー・ベイブ、センチメンタル・シティ・ロマンス… と、アメリカン・サウンドの王道を歩いてきた先輩でしょ。ベースは確かJ-WALK(現:JAYWALK)を脱退したばかりの長島進さんを連れてきてくれて。キーボードは柴田。ギターは僕。この4人と学で『SCRAMBLE』のレコーディングをして、同じメンバーでツアーも回ったんです。ほんと、いいバンドだったよ」

こうして密な活動をともにするなか、同じくアメリカンロックが大好きな若きシンガーソングライター&ギタリストの宮原は、佐橋にとって可愛い弟分のような存在となっていった。

「学からすると、UGUISSの存在がめちゃめちゃ衝撃だったらしい。自分がやりたいと思っていたことに近い音楽をすでにやっていたバンドがいたんだ、と。それで、当然いろいろ話も合うし、すっかり仲良くなってね。僕の家に呼んでいろんなレコードを聴かせたり。学のウチに行って曲作りのお手伝いなんかもしたなぁ。プライベートでもしょっちゅうつるんでた。僕がまだ(渡辺)美里のライヴもやってた時期なんだけど、学は美里のツアー打ち上げにもしょっちゅう来てさ。一緒に盛り上がっていた。ふたりで “よし、楽器買いに行くぞ!” って盛り上がっていきなりニューヨークまで行ったこともある(笑)」

新進プロデューサーとしての使命を果たせたという安堵感

『SCRAMBLE』からのシングルカット・ナンバーは2曲。フジテレビの人気番組『桃色学園都市宣言!!』のエンディングテーマになった4枚目シングル「WITHOUT YOU」と、明石家さんま出演のサントリービールのCMソングに起用された5枚目のシングル「GET READY」。その「GET READY」の大ヒットにより宮原の歌声は一躍お茶の間にも知れ渡ることになった。佐橋を含むバンドの面々と歌番組にも出演した。この曲がヒットしたことで、佐橋も新進プロデューサーとしての使命を果たせたという安堵感を覚えたという。弟分、宮原と共に作り上げた作品は、佐橋にとってUGUISS時代からやり残していた “宿題” のような側面もあったのかもしれない。

「いわゆる王道アメリカンロックとかね、いろんなロックのスタイルをUGUISS時代に研究してたわけだけど。それをようやく思いっきり活かせたんだよね。その頃の僕はもっとポップス寄りのセッションとか、歌謡曲の分野の仕事にもいっぱい呼ばれていて。もちろんそこでの達成感もあったけど。学とは、自分にしかできないやり方で何かひとつできたかな… という手応えがあった。世の中的には、学みたいなタイプはまだまだちょっとロックすぎるきらいもあったし。時代的には難しかったとは思うけどね。そんな中、曲をヒットさせるところまでは持っていけたわけだからね。すごく思い出深い仕事です」

ギタリスト、石成正人にとってもアルバム「SCRAMBLE」は忘れられない思い出

話はちょっと横道にそれるが… 平井堅、スキマスイッチ、JUJU、藤井フミヤなどなど数多くのアーティストのツアーやレコーディングで活躍するギタリスト、石成正人にもアルバム『SCRAMBLE』の世界観は多大な影響を与えたらしい。ご本人も折あるごとに話しているエピソードだが、高校時代の友人に誘われて行った『SCRAMBLE』のツアーで見た佐橋佳幸こそ、彼がギターを始めるきっかけになった存在なのだという。この時代に宮原や佐橋たちがやろうとしていた音楽のインパクト、単純に “セールス” という結果だけでは語れない影響力を証明するようなエピソードだ。

「初めて観に行った日本のポップミュージック系のライブだったんだって。石成くんはそれまでエレクトーンしか弾いたことがなかったのに、学の隣でギターを弾いている僕が気になって “あれは何?” って友達に聞いたら “スタジオミュージシャンっていうか、サポートとかする人なんだよ” って教えてくれたんだって。それで “俺、あれになりたい!” って、そこからギター始めたんだって。ウソみたいな話だよね(笑)。それが今やもう、超バリバリの売れっ子ギタリストなんだからね」

「GET READY」がヒットして、お茶の間まで人気が広がって、ライヴの動員も一気に増えてきた。周囲は、この勢いでさらに突き進むぞ!というムードで盛り上がっていたのだが…。

「その翌年くらいかな、学がいわゆるスランプに陥ってしまうんです。前のようなペースで曲を書くことができなくなってしまう。そうすると、レコーディングやツアーのスケジュールが立たなくなる。僕は当時まだ美里のライブやレコーディングもやっていたし、さらにこの時期、次に僕が全面プロデュースをすることになる鈴木祥子ちゃんとの仕事も始まって。当時のスケジュール帳を見ると、学と美里と祥子ちゃん、3つのプロジェクトががっつりと重なってますね。その間に他のセッション仕事も入ってるし。そんなわけで、スケジュール的にさすがにツアーもできないなという感じになってしまって。そこから学とはちょっと疎遠になっちゃって。ただ、学はその後さらにハードな路線に移行していくんです。そのことを考えると結果的にはあれでよかったのかな… とも思う。ロックといっても、僕はそこまでハードなタイプではないしね」

宮原学はBABY'S BREATHを結成。バンド名義での活動をスタート

その後、宮原は小田原豊、是永巧一、高橋教之、柴田俊文とBABY'S BREATHを結成。バンド名義での活動をスタートさせ、1991年4月には初アルバム『BABY'S BREATH』をリリースする。メンバーの顔ぶれを見れば間違いなく、このバンドへの布石は『RUSH!!』と『SCRAMBLE』だった。

「実は『SCRAMBLE』のツアーが終わった後、やがてBABY'S BREATHになるメンバーや僕とで “お試しセッション” をやったことがあったの。すっかり忘れていたんだけど、当時のスケジュール帳を見て思い出した。89年2月だからバンド結成前夜だよね。ギターが僕と是永くん。ドラムは小田原くんと、その頃は久保田利伸くんとかと一緒にやってたジーノ(秋山)さん。で、ベースがノリさん。キーボードが柴田。“こういうメンバーでバンドやってみるのはどうだろう?” みたいな感じで集まったんだと思う。オールマン・ブラザーズ・バンドの曲とかやった記憶があるな。このメンバーでオールマンだよ? まぁ、僕からするとやってることはUGUISS時代と何も変わらない感じだけど。演奏しているうちにどんどん楽しくなってきてさ。“オレたち、いけそうじゃない?” と(笑)。

結果的にそれがBABY'S BREATHへと変容していく。だからその後、柴田からBABY'S BREATHとしての活動が始まったことを聞いた時、“よかったね、ついに実現したね” って言ったら、“お前はいないけどな” って言われたんだよな。当時、まだ僕らはみんな30歳前後で。みんな、何か面白いことやりたいって気持ちがすごくあったんだと思う。そんな僕らにとって、宮原学という存在は “新しいロック” をやりたい同世代ミュージシャンたちが集まる “場” みたいな感じだったんだろうな…」

こうして生まれたBABY'S BREATHもやがて解散。宮原はソニーからEDOYA、ワーナーとレーベルを移籍しながら、以降もソロとして、バンドとして、さまざまな形態で音楽活動を続けてきた。2006年に行なわれたデビュー30周年ライヴでは、久々に佐橋とのリユニオンも実現。佐橋、是永、小田原、柴田、そしてベースに根岸孝旨。佐橋にとっても、かつての日々が懐かしく思い出された楽しい夜だった。

次回【佐橋佳幸の40曲】につづく(1/13掲載予定)

カタリベ: 能地祐子

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