平成芭蕉の「令和の旅指南」⑦ 森鴎外の故郷「山陰の小京都」津和野

風光明媚な石見地域「山陰の小京都」津和野

山陰本線を出雲市から浜田市、そして益田市に向かって走る列車の車窓に映る風景は、「素晴らしい」の一語につきます。この石見地域一帯の海岸は、山が海にせり出していて、眺めは砂浜、奇岩、岬と目まぐるしく変化します。

益田市は柿本人麻呂と雪舟をしのぶロマンの街ですが、益田市から山口線で訪ねる島根県最西端の津和野町も「津和野百景図」で知られるように、歴史ある街で「山陰の小京都」とも呼ばれています。

文豪 森鴎外の出身地としても知られる津和野は、益田平野を流れる美しい高津川水系に沿って町が形成され、青野山や城山など、周囲を山々に囲まれた盆地に城下町が発展、その歴史的なストーリーは「津和野今昔~百景図を歩く~」として日本遺産に登録されています。

津和野に本格的な城下町が造られたのは、関ヶ原の戦いの後に城主となった坂崎直盛(さかざき・なおもり)が整備を開始してからで、それを引き継いだ城主・亀井家が、産業の開発や人材の育成に力を注いで城下町をさらに発展させました。

津和野「殿町通り」## 日本遺産「津和野百景図」観光

江戸時代、津和野藩は代々絵師を抱え、四季折々の津和野の名所や風習・風俗を襖絵や額などに描かせて、津和野の伝統文化である煎茶とともに藩士や津和野を訪れた人々をもてなしたと言われています。

明治維新の後、藩主の亀井家は津和野を離れますが、帰郷した際、まちの旦那衆を招いてお茶でおもてなしをしていました。その茶席で紹介されていたのが藩の御数奇屋番(おすきやばん)であった栗本里治(格斎)が描いた「津和野百景図」です。

栗本里治は藩主の側で茶礼を扱う仕事の傍ら、藩内の名所や風俗・食文化等をスケッチし、14代当主亀井茲常(これつね)の依頼を受けてから3年8カカの歳月をかけて100枚の絵を描き、それらに詳細な解説を加えて「津和野百景図」としてまとめたのです。

百景図に描かれた風景は、明治の啓蒙思想家 西周(あまね)や、明治の文豪 森鷗外が藩校「養老館」に通っていた時代のもので、もてなされた旦那衆は、生き生きと描かれた幕末の津和野の風景に目を見張り、「この美しい津和野を守っていこう」と近代化を受け入れつつも、美しい街並みを守ったのです。

津和野町は中心地の伝統的な「殿町通り」の街並みと水路を泳ぐ鯉が有名ですが、おすすめの見どころは藩校の「養老館」、初代津和野藩主である坂崎直盛や森鴎外の墓のある永明寺(ようめいじ)と1773年に亀井氏が創建した日本五大稲荷のひとつに数えられる太皷谷稲成(たいこだにいなり)神社です。

また、1868年、長崎から連行されてきた隠れキリシタン153名が境内に収容され、棄教をするよう拷問を受けた光琳寺(こうりんじ)跡に立つ乙女峠マリア聖堂など、歴史的な建造物が数多く残っています。

養老館## 津和野の日本遺産ストーリーを体感する

私はこの美しい街の景観をストーリーで楽しむために、まずは津和野本町通りにある「津和野町日本遺産センター」を訪れました。ここでは「津和野百景図(複製)」が全て展示されており、約150年前の津和野の様子を知られるだけでなく、ストーリーも「四季」「自然」「歴史文化」「食」というテーマで紹介されています。

しかし、日本遺産「津和野今昔~百景図を歩く~」のストーリーを正しく理解するためには、「津和野百景図」と現在の文化財を対比するだけでは不十分です。このストーリーを体感するには「人々が受け継いできた伝統や慣習」「良きものを上手に今に活かす知恵」「美しい町並みを未来に引き継ごうとする意思」など、ここに暮らす人々と触れ合い、津和野が生んだ偉人についても知る必要があると思います。

そこで、私は約4万石の小藩が激動の幕末・明治を生き抜いた秘密を探るべく、郷土史家の山岡浩二さんの案内で、武でなく文で活躍した森鴎外の「旧宅」と徳川慶喜の側近として活躍した明治の啓蒙思想家 西周の「旧居」を訪ねました。

郷土の偉人、森鴎外の生き様

森鴎外の「旧宅」は間違いなく生家ですが、現存する西周邸は生家ではなく、4歳頃に現在の「旧居」に移ったと言われています。1995年には、森鴎外旧宅の隣接地に津和野町立森鴎外記念館が設立され、今では旧宅は展示物の一つとして位置付けられています。

森鷗外は1862年、津和野藩に仕える医師を務める森家に生まれ、10歳のときの廃藩置県をきっかけに父とともに上京、東大医科卒業後に陸軍軍医となり、ドイツへ留学、軍医のトップとして活躍しながら小説家としても『舞姫』『阿部一族』などを発表し、高い評価を得ています。

その森鴎外は47歳の時に「過去の生活は食ってしまった飯のやうなものである」と書いており、自分の故郷を「食ってしまった飯」と捉えて帰らなかったと言われています。しかし、私には鴎外の「余は石見人森林太郎として死せんと欲す」という遺言の言葉から、「故郷は自分の大切な場所だった」と照れ隠し気味に言っているように感じ、鴎外の生き様に深く感銘を受けました。

森鴎外旧宅

寄稿者 平成芭蕉こと黒田尚嗣(くろだ・なおつぐ)クラブツーリズム㈱テーマ旅行部顧問/(一社)日本遺産普及協会代表監事

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