核保有国の市民の声を知りたい-。11月、米国3都市を巡った県被爆者手帳友の会の「ヒバクシャ・ミライ・プロジェクト」の渡米団。被爆2世の井原和洋さん(65)=長崎市=、永井徳三郎さん(57)=同=、被爆者の宮田隆さん(84)=雲仙市=が対話から見えた米市民の今を語った。
■引き継ぐ
同会会長だった父の故井原東洋一さんの遺志を継ぐ形で、会長補佐を務める井原さん。渡米準備や日程調整などを引き受けた。蓄積された被爆者運動を引き継ごうと決意したからだ。
被爆者の増川雅一さん(84)=長崎市=が体調不良などで渡米直前に断念。井原さんが急きょ、増川さんの証言を英語で読むことに。持ち時間は短く「正しく伝わっただろうか」と戸惑いながらも、増川さんの人柄も伝えた。「相手が分かるように話をすれば共感が得られる」
核兵器廃絶運動を前進させるため、次世代による具体的な話し合いが必要だとも感じた。「交流した市民とつながりを保ち、行動を考えないといけない」
■万国共通
長崎原爆で重傷を負い、被爆者の救護に尽くした故永井隆博士の孫である徳三郎さん。長崎市の永井隆記念館の館長として、「隣人を自分のように愛せ」という永井博士の「如己愛人」の思想を語ってきた。
米国での講演、しかも英語でも初めて。永井博士の人生や残した言葉を伝えた。最初は緊張したが、次第に聴衆の顔を見ながら話せるようになると、涙を浮かべる姿が見えた。握手を求められることもあり「最後は人間愛が平和をつくる。永井博士のメッセージは万国共通だ」と実感した。
徳三郎さんは「この旅は小さな一歩。話を聞いた一人でも何かのきっかけで、この経験を誰かに伝えてくれたら」と願った。
■自問自答
「これが最後のチャンスだけど、われわれで活動を終わらせてはいけない」。宮田さんは5歳の時、爆心地から2.4キロの長崎市立山町(当時)で被爆。約10年前、がんを発症し、薬が手放せないが、病を押して参加した。
慣れない環境で疲れが取れず、集会などに参加できない日も。「被爆者として役割を果たせているか」。そう自問自答しながら、被爆体験や平和への思いを米市民にぶつけた。
「今回、話をしたのは(私たちの活動に)賛同する人が中心」と冷静に分析。それでも、今後の課題も含めて手応えを感じた。「交流を続け、『次世代が活動をどうつなぐか』という大きな課題を米国の学生にも真剣に考えてほしい」