「突き指するからノックはやめておけ」とはならない・金本知憲さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(31)

2010年7月の広島戦で2ランを放つ金本知憲さん=甲子園

 プロ野球のレジェンドに現役時代や、その後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第31回は金本知憲さん。1492試合連続フルイニング出場のプロ野球記録を持つ強打者はファンから「鉄人」「兄貴」と呼ばれて愛されました。44歳まで現役を続けた体を支えたのは過酷なトレーニングの他に、体質を考慮した「練習」だったそうです。(共同通信=中西利夫)

 ▽「スイング週間」を設定したのが甘かった

 後悔はいっぱいある。32、33歳を過ぎてから、もっと練習しておけばよかったなというのが一番の悔い。僕は自分で「スイング週間」というのを決めていた。この2週間は、けがをしていようが、体調が悪かろうが、鏡の前で全力でバットを振る。試合前と試合後の1時間は頑張って振ると決めていた。主に試合後だ。練習していなくても打てる時がある。それで打てなくなるとスイング週間を設けた。シーズン中、2回ぐらい。それをやると必ず打てるようになった。月間MVPとか、やった分だけ明らかに結果が出た。だったら、シーズン中ずっとやっとけよ、と僕は思った。それが、やっぱり甘えとか怠け心。腹を決めてバットを振るのをやっておけば、もっと成績が違ったんじゃないかと。年に2回じゃなく4回ならどうだったか。半年間やっていたら、打率もホームランも打点も全然違う数字が残ったと思う。そういう後悔だ。

東北福祉大時代の金本知憲さん。1992年の広島入団は本人曰く「プロへ行けただけでラッキーっていうぐらいの感覚」=91年6月撮影

 若い時は確かに練習量は多かったが、がむしゃらというだけで、練習した分が試合の結果に結び付いたかというと、結び付かなかった部分でもある。何をやっていいのか分からなかったと言う方が分かりやすいかも。30歳を過ぎて、自分はこういう練習をすると良くなるというのが分かってきた。バットを振っている時は鏡を見ながらチェックするポイントがある。体のラインとか回転力、下半身の動き、全体のバランスとか。僕の練習というのは、すごく体力と集中力がいる。試合後にやるのは、野球選手は疲れた中でやるのが当たり前だから。それでまた必ず強くなっていかないといけない。ちょっと練習して腰が痛いじゃ、何もできないですよ。

1997年5月の阪神戦で本塁打を放つ金本知憲さん。初めて本塁打が30本を超えた(33本)シーズンだった=広島

 ▽おなかいっぱいになってからが「練習」

 体が大きくなりにくい、やせやすい体質だった。現役時代を振り返って本当に頑張ったなと思えるのは、一番は食事。100%できたと思う。自分で褒めてあげたいぐらい。時間をかけて人の1・5倍から2倍を詰め込んだ。食事も練習と思っていた。プロに入った時は線が細く、ガリガリだった。それをむりやり増やさないといけない。一番の問題は量ですね。栄養とか関係ない。おなかいっぱいになって、そこからが練習なんです。満腹に近くなったな、という時点で終わらせたら、すぐやせた。一気に3キロぐらい落ちた。それだけ食べないと体重が維持できなかった。カロリー計算は面倒くさいので全くしません。脂肪がつきにくい体質で、少々カロリーが多い物を食べても大丈夫。太りやすい人は制限するけれど、僕は逆だった。常に胃腸薬は持ち歩いていた。胃腸を壊すと食事が進まないので。

2000年7月の中日戦で本塁打を放ち、ナインに迎えられる金本知憲さん。この年は初めて年間でフルイニング出場した=松山

 21年間、食事とトレーニングと体の手入れ。この三つだけは本当に誰にも負けないぐらい頑張ったと自分でも思う。プロ入りから体重は12キロぐらいアップした。筋肉は全身につきました。特に下半身は気を使った。常に体重の倍のものを担いで何回も繰り返すとか、限界まで追い込むのが基本です。シーズンオフは180キロでフルスクワット10回。シーズン中は体重が減っていくので、担ぐ重さも落ちてきて160キロほど。体重90キロぐらいだったので、180キロはちょうど倍なんです。
 筋力が一番強かったのは33~36歳。追い込むトレーニングを長くしている選手は少ない。その分、僕は限界のトレーニングを40歳ぐらいまで続けたからこそ長く現役を張れたのではないかと思う。膝の手術を2回して、その時はトレーニングができなくなった。太ももとか(筋肉が)がくっと落ちた。シーズンオフに本来、きっちり追い込んでいるはずなのに、全くそれができないわけですから。それでも1回目の手術の時(2007年)は貯金があるので、すぐに戻った。2年連続2回目の手術の時は、復帰が41歳の年齢では、かなりこたえました。

2004年8月、701試合連続フルイニング出場で当時のプロ野球新記録を達成した金本知憲さんは記者会見前に左手首の痛みをこらえる。数日前に投球を受けた=甲子園

 (阪神監督時代に若手選手を見て)彼らはそういうトレーニングしたことないので、やり方が分からない。だから、こっちがある程度メニューに組み込んで強制してやらせないと。セット数や目標値を決めるのも。トレーニングはみんなするんですけど、追い込むってあまりやりたがらない。きついですからね。他の楽な方に逃げますから。トレーニングでけがをするやつはグラウンドでもけがをしますよ。大体そうです。トレーニング中に肉離れ、骨折とか聞いたことがない。ぎっくりとか軽いのはあるけれど、それを気にしていたら何もできない。守備練習だって指を突く可能性がある。突き指するからノックはやめておけ、とはならない。

2008年4月の横浜戦で通算2千安打を達成した金本知憲さんは守備に就いて観客の声援に応える=横浜

 ▽記録はいつか止まるもの。何とも思わなかった

 (広島時代の1002打席連続無併殺打はプロ野球記録で)個人成績が下がる局面で、どれだけ一生懸命できるかという証明だと思う。ランナーが一塁にいて内野ゴロを打つと、全力で走ってセーフになれば、まだチャンスは残っているわけじゃないですか。やっぱり打率が下がるものだから走らない選手が多いんですよ。自分の成績が下がる場面でも全力で走ったというのを一番アピールしたかった。チームのためにやってきたと誇れる記録です。
 打線があまり強くないチームでずっとやってきたので、自分が打たないと勝てないというプレッシャーもあった。逆にそれが僕の成績を押し上げてくれたところでもある。(年間で)最初にフルイニング出場したのは2000年。前年のシーズンが終わって4番の江藤智がFAで巨人に。4月に緒方孝市がけがをして、前田智徳と野村謙二郎さんも離脱した。主力がほとんどいなくなり、これで僕がいなくなったら、どうなるんだろうと。彼らの分までやらないといけないし、休むわけにいかない。結局、フルイニング出場の初めての年になった。その時も右手薬指を思いきり骨折したけど、ずっと出ました。ゴールデンウイークの横浜スタジアム。照明が目に入って(打球が)消えてしまって、手で捕りにいったんですね。その瞬間にやったと思った。第1関節。すぐ腫れ上がった。(グリップを)薬指と小指、2本余して打った。うまいこと合わすだけのバッティングになった。薬指は(阪神移籍後の)06年もやってます。やはり守りで照明が入って同じような感じ。

2012年10月の引退セレモニーでファンと握手を交わす金本知憲さん=甲子園

 10年の右肩負傷はオープン戦前の練習で。その時は全く送球もできなかった。(腱板が)断裂していたので。それをかばって肉離れもした。意外と打つ方は大丈夫だった。3年間、肩に不安を持って何とかごまかしながらやって、引退して手術した。(10年4月のフルイニング出場ストップは)自分から直訴しました。良くなる兆しがないから。真弓明信監督は「もうちょっと我慢できないか」と止めてくれましたが、状態がひどかったので。記録はいつかは止まりますから何とも思わなかったですよ。ああ、来たかというぐらいで。伸ばそうという気持ちもなかった。
 記録は途切れましたけど、運によるところが多い。アキレス腱を切ったとか、絶対に試合に出られないけがをしなかった。そういう意味では野球の神様に感謝です。いい野球人生だったと思います。これだけできで、運があった。個人タイトルが打点王1度だけなのは巡り合わせでしょうね。運と縁がなかった。

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 金本 知憲氏(かねもと・ともあき)広島・広陵高―東北福祉大からドラフト4位で1992年に広島入団。走攻守そろった外野手で、2003年に移籍した阪神で2度のリーグ制覇に貢献。04年は打点王。名球会入り条件の2千安打は08年4月に達成。12年に引退し、通算2539安打、476本塁打。16年から阪神監督を3季務める。68年4月3日生まれの55歳。広島市出身。

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