ニューヨークで示した核兵器廃絶への覚悟「アメリカで証言できれば世界を変えられる」 平均年齢85歳、核禁止条約会議で語った被爆者の言葉は日米の若者の心を揺り動かした

核廃絶を訴え、国連本部前をデモ行進する被爆者ら=2023年11月、米ニューヨーク(共同)

 史上初めて核兵器を違法化した「核兵器禁止条約」の第2回締約国会議が、米ニューヨークの国連本部で昨年11月27日から開かれ、5日目の12月1日、核兵器廃絶への決意を示す政治宣言を採択し閉幕した。米国の「核の傘」に依存する日本政府や核保有国は第1回に続き参加しなかった。一方、非核の志を同じくする被爆者や多くの若者が日本から駆け付け、確かな足跡を残した。

 広島市の被爆者、箕牧智之さん(81)は体験を証言する理由をこう語る。「被爆者だから体験を伝えないといけない。米国で証言できれば、もっと世界を変えられる」。平均年齢が85歳を超えても国際舞台に立つ被爆者の姿や言葉。次世代は胸に刻み、核大国・米国の人たちの心も揺り動かした。(共同通信=新井友尚、下道佳織、調星太)

 ▽「足が痛い」から一転、米国の学生に被爆体験を熱く語る
 米国は1945年8月6日に広島へ、9日に長崎へ原爆を投下した。

 3歳だった箕牧さんは原爆投下後、母に連れられ、爆心地から約2キロの広島駅で働いていた父を捜しに行き、被爆した。最近は心不全で入院するなど健康不安も抱え、「国際会議での渡航は最後」との覚悟で臨んだ。11月26日に開かれた現地の教会での事前イベントでは「足が痛い」と休み休み歩き、改めて「今回が最後じゃ」と漏らした。

 だが3日後の米国の若者との対話では一転、生気をみなぎらせた。大学で身ぶり手ぶりを交え、きのこ雲の下で何が起きたかを伝えた。「みんな仲良くし、若い人の力で戦争にならないようにしてほしい」。質問する学生を近くに招き、丁寧に向き合った。

 「原爆を落とした米国に、どれほど憎しみを抱いているのか」との直球の問いもぶつけられた。箕牧さんは「人によって違う」と前置きした上で、2016年に当時のオバマ米大統領が現職として初めて広島を訪れた時は「みんなが歓迎した」と振り返った。

 翌日は滞在先から車で約1時間離れたブルックリン地区の高校に向かった。箕牧さんはパレスチナ自治区ガザで血を流す子どもの映像に言及し「かわいそうで見ていられない」と声を詰まらせ、そして続けた。「今この上に原爆が落ちたら、命がなくなるからね」

 感極まり、涙を流す女子生徒とは優しく握手した。言葉の力強さの理由を問う男子生徒には少し考え、こう答えた。「被爆者だから体験を伝えないといけない。米国で証言できれば、もっと世界を変えられる。皆さん、帰ったら家でも伝えて」

米ニューヨーク・ブルックリン地区の高校で被爆体験を証言し、生徒と対話する箕牧智之さん(右)=2023年11月(共同)

 米国では原爆投下を正当化する意見が根強い。箕牧さんとの対話が終わった後、私(新井)は何人かの生徒に感想を尋ねた。マーカス・アヤラさん(17)は「彼の人生を奪い、米国人として申し訳なく思う。核兵器はなくすべきだ」と話した。

 ジャマイカにルーツのあるドニエレ・ブラウンさん(18)は遠い米国で証言してくれたことに感謝の言葉を述べ、真剣な表情で言った。「きのこ雲の下で何が起きたか、考えたこともなかった。核兵器をなくすというアピールは心に染みた。箕牧さんの物語をたくさんの人に知ってもらう活動をしたい」

米ニューヨーク・ブルックリン地区の高校で被爆体験を証言し、生徒の質問を聞く箕牧智之さん(左)=2023年11月(共同)

 ▽「私たちには時間がない」被爆者の意見表明、共鳴する若い世代
 締約国会議の期間中、国連内では非政府組織(NGO)などが企画するサイドイベントも多く開かれた。

 生後9カ月の時に広島で被爆した名古屋市の金本弘さん(79)は、核廃絶への道筋が会議で明確に示されない現状にもどかしさを感じていた。米国の核実験で被害を受けたマーシャル諸島など、世界各地の核被害者が団結を確認した時のこと。金本さんは傍聴席で立ち上がり、語気を強めて意見表明した。「私たち被爆者には時間がないんです」

 12歳上の姉千代子さんは被爆で左半身にケロイドが残り、就職で差別を受けた。「娘時代をまどうてほしい(償ってほしい)」と言い残し、2019年に86歳で亡くなった。金本さんは「この悔しさを伝えたい」との決意を胸に渡米した。

 2021年の条約発効により、「絶対に核兵器は禁止される」と金本さんの確信は揺るがない。とはいえ、被爆者が生きているうちに達成できるのだろうか。こう質問すると、「うーん」と首をひねり、複雑な心境を明かした。「核廃絶を議論すること自体が、目的化していると感じる」

国連本部で開かれたサイドイベントで意見表明する被爆者の金本弘さん(中央)=2023年11月、米ニューヨーク(共同)

 それでも光は見える。日本のNGOの若者が運営するオンライン配信に出演し、率直な思いを吐露した。「若い人、世界の人が(核廃絶に)関わろうとしていて、とても一生懸命だ。私ももう少し長く生きたい」

 広島市の佐久間邦彦さん(79)は生後9カ月で原爆に遭い「黒い雨」を浴びた。北東アジアの軍縮を考える29日のイベントで「被爆者の願いは救済だけではなく、核兵器が地球上からなくなることだ」と話し、核兵器の非人道性を原点に成立した条約の意義を強調した。

 福岡大4年の岡明日佳さん(22)は、インターンで活動する米国の平和団体のメンバーとしてイベントに参加し、佐久間さんに謝意を伝えた。「話してくださるからこそ、私たち若い世代が核兵器に関して知ることができ、世界中で議論して考えることができます」。佐久間さんはこの言葉に「うれしかったね」と笑顔。2人は交流を続けていくと誓い合った。

被爆者の佐久間邦彦さん(左)と今後の交流を誓う岡明日佳さん(右)=2023年11月、米ニューヨークの国連本部(共同)

 核廃絶を世界に訴える高校生平和大使を務めた経験のある岡さんは、被爆者や沖縄戦の体験者らの証言を聞き、世界平和の重要性を肌で感じてきた。それだけに被爆者の高齢化に危機感をにじませた。「明日にでも核兵器を廃絶しないといけない。私たちにも時間がない」。将来の目標は国連の職員として核軍縮に携わることだ。

 国連本部の議場では、広島と長崎から派遣された2人の現役の高校生平和大使が被爆地の悲願を訴えた。「一緒に核廃絶を」。英語の原稿は直前まで何度も練り直した。大役を果たした後、そろってほっとした表情を見せた。

米ニューヨークの国連本部で演説する高校生平和大使の尾崎心泉さん(手前中央)。右は安野美乃里さん=2023年11月29日(共同)

 広島市の私立AICJ高校1年の尾崎心泉さん(16)が「もっと多くの被爆体験を聞き、核廃絶を目指して平和活動に取り組みたい」と語った。長崎県立長崎東高校2年の安野美乃里さん(17)も目を輝かせ「被爆体験を直接聞ける最後の世代。世界に発信できてうれしい。自分たちが被爆者の体験や思いを継承していく上での大きな一歩になった」と振り返った。

 同じ議場で、広島市出身で赤十字国際委員会の若者代表の大学生高垣慶太さん(21)は「核被害に国境はない」と強調した。演説しながら頭に浮かんだのは広島市の平和記念公園や、長い時間をかけて対話した被爆者の姿。演説後に「世界から核兵器がなくならないのは、核被害の苦しみがまだまだ知られていないから。本当に核兵器が自分たちを守ってくれるのか、考えなければいけない」と語った。

核兵器禁止条約の第2回締約国会議で発言する高垣慶太さんを映すスクリーン=2023年11月、米ニューヨーク(共同)

 ▽ニューヨークで行ったデモ。それを見た米男性は「非核は理想だが難しい」
 被爆者や若者は街頭でも声をからした。身を切るような寒さの30日朝。日本政府に条約参加を求め、ニューヨークにある日本総領事館の前で集会を開いた。「被爆者からの手紙です」。長野県松本市の医師で、若い医療・介護従事者でつくるグループで平和活動に取り組む河野絵理子さん(27)は、通勤する人たちにビラを配った。長崎で原爆に遭った岐阜市の木戸季市さん(83)の体験が英文でまとめられており、木戸さんら被爆者も共に街頭に立った。

 「NO NUKES(非核)」の横断幕を見て受け取った人もいれば、無関心そうに見えながら手に取る人もおり、50枚ほどが短時間でなくなった。手応えを感じた河野さんは「被爆者の存在を広く知ってもらえるかも。面と向かって届ける大事さを、今後につなげたい」。

横断幕を持つ被爆者らのそばで、被爆体験を英文でまとめたビラを配る河野絵理子さん(左)=2023年11月、米ニューヨークの日本総領事館前(共同)

 河野さんは被爆者らと街頭デモにも加わり、英語で「核兵器は違法だ」と気勢を上げた。「世界平和のためにエネルギーを振り絞る被爆者を尊敬しているし、励まされる」という。

 米国人は街頭デモを見て何を感じたのか。50代男性は「ニューヨークは自由で寛容だから、デモをするにはいい場所だと思うね」。米国が核大国であることをどう思うか聞くと、複雑な表情を見せた。「米国は核抑止により小国を守っている」と前置きした上で考えを語った。「核兵器は理想上なくした方がいいし、人類が大きな力を持つのは自然ではない。だが核の威嚇を繰り返すロシアや、相次いでミサイルを発射する北朝鮮を見ると、核廃絶はとても難しい」

国連本部前で街頭デモをする河野絵理子さん(手前右から2人目)=2023年11月、米ニューヨーク(共同)

 ▽「これからも被爆者として何をすべきか、考える」
 12月1日。議場で会議の閉幕を見守った被爆者は、若者と互いをたたえ合い、会期を無事に駆け抜けたことに安堵の表情を見せた。

 長崎で被爆した医師の朝長万左男さん(80)は会議への参加に先立ち、11月上旬から約2週間かけて米国の地方都市を巡り、市民との対話集会を開いてきた。会議の成果を「非人道性をとことん追及する状況が生まれている」と評価した一方、こう不満ものぞかせた。

 「核保有国を取り込むため、どういう交渉をしているか示されなかった。敵視だけでは進歩はない。保有国との対話を実現し、会議に出席してもらうことが大事だ」

国連本部で開かれたサイドイベントで話す被爆者の朝長万左男さん=2023年11月、米ニューヨーク(共同)

 箕牧さんと佐久間さんは帰国後、それぞれ広島市で報告の記者会見を開いた。箕牧さんは日本政府に条約加盟を求め続ける決意を示し「悔しく、歯がゆい。今後も署名活動をし、訴えていく」。渡航は最後かを改めて問われると、旧日本軍が奇襲し太平洋戦争の端緒となった「(米ハワイの)パールハーバーはこの目で見てみたい」と、ばつが悪そうにほほ笑んだ。

米ニューヨークでの活動について話す被爆者の佐久間邦彦さん=2023年12月、広島市

 佐久間さんは「私は被爆当時の記憶はないが、被爆者としてどう生きてきたかを訴えていくことがとても大事だと思う」と話した。そしてこう締めくくった。「これからも被爆者として何をすべきか、考えていく。私たちが活動を続けることで、若い人たちもついてきてくれる」(年齢は全て取材時)
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 ニューヨークでの取材中もさることながら、年を重ねてもなお、核廃絶へ諦めずに進む被爆者の姿には圧倒される。同行した私たち記者は1人は40歳で、2人は帰国後に28歳になった。被爆者の思いを読者や後世に伝える責任があると強く感じる。戦争の記憶を継承する自覚が、より求められる。そのために何をしていくべきなのか。佐久間さんの言葉は、戦争を知らない世代に向けられたメッセージでもあると感じた。

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