主席より有名だったファーストレディ「夫人外交」をウォッチャーが解説

この番組をラジコで聴く

中国の習近平主席が12月、ベトナムを訪問した。東アジア情勢に詳しい、飯田和郎・元RKB解説委員長は、習主席ではなく夫人の彭麗媛さんに注目した。その華々しい経歴は「主席より有名だったファーストレディ」と称してよいだろう。12月21日に出演したRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で解説した。

ASEAN特別首脳会議の直前にベトナム訪問

パーティー券のキックバック、そこから生じる裏金、さらには閣僚・自民党役員人事…。対応に追われる岸田総理は右往左往といった感じ。一方で外交もおろそかにできない。12月17日には、ASEAN(東南アジア諸国連合)各国の首脳を東京に招いて、特別首脳会議を開いた。日本とASEANが交流を始めて、今年でちょうど50周年を記念した会合だった。

一方、中国の習近平主席は12月12日から13日にかけて、そのASEAN加盟国のベトナムを公式訪問していた。東京での日本・ASEAN特別首脳会議の直前ということもあって、ASEANをめぐって、日本、中国が互いに綱引きをしているようにもみえる。

中国メディアはこの習主席のベトナム訪問、中越首脳会談を大々的に報道していた。きょうはそのベトナム訪問を、違う視点から分析してみたい。

中国のファーストレディ外交

「中国の首脳外交」ではなく、「中国の首脳夫人外交」。習近平氏夫人、中国のファーストレディの役割について。名前は、彭麗媛(ほう・れいえん)さん。夫の習近平氏より、9つ年下の61歳だ。

ベトナムでは夫の習近平主席と別々に行動する場面があった。彭麗媛さんはまず、ベトナム共産党総書記の夫人と一緒に、ベトナム女性博物館を見学した。ベトナムの婚姻の風習などについて話を聞いている。そこで彭麗媛さんは、自分の国を紹介した。

「中国は男女平等を堅持し、女性のさまざまな権利をとても重視しています。中国とベトナムが交流を広げ、またお互いを鏡にして、女性たちが自身の命運を変え、人生の価値をより高められるようにしていきましょう」

これとは別に、彭麗媛さんはベトナムの国家主席夫人と、ハノイ国立大学も訪問した。ここでは大学で中国語を学ぶベトナム人学生との交流会に出席した。学生たちのしゃべる中国語のレベルの高さを賞賛しながら、「言語は相互理解の橋渡しになる。皆さんも中国とベトナムの文化交流の橋渡しになってください」とにこやかに話しかけていた。

軍隊で少将の肩書を持つ歌手

東京であった日本・ASEAN特別首脳会議には夫人同伴で来日したASEANの首脳もいた。16日に、迎賓館赤坂離宮で、岸田総理夫妻が主催して歓迎晩さん会が開かれた。岸田総理の裕子(ゆうこ)夫人は、和服姿で賓客をもてなしていた。

夫人のファッションに焦点を当てて、ウオッチしてみると、彭麗媛さんはチャイナドレス、または中国の伝統をイメージしたスーツが多い。多くはスリットが入り、デザインも華やかだ。その彭麗媛さん、かつてテレビのインタビュー番組に、ゲストとして出演した時にこう話している。

「どんなところへも行きました。ラオスとの国境、ミャンマーとの国境、ベトナムとの国境、ソビエトとの国境、朝鮮との国境も…。輸送用のトラックに乗って…」

彭麗媛さんは、もともとは歌手だった。それも中国人民解放軍に所属する歌舞団の歌手。軍隊では少将の肩書を持つ。中国と周辺国との国境、あちこちへ行ったというのは、国境警備をする兵士への慰問。そこで厳しい任務に就く第一線の兵士に歌を披露して、慰労してきたということだ。

中国では旧暦の大晦日の夜。旧正月の元日前の晩に、中国版の紅白歌合戦が全国に向けてテレビ中継される。選び抜かれたミュージシャンだけが出演できる。そこにも出演したほどの人気歌手でもあった。

歌唱力に優れ、1983年に北朝鮮の金正日氏(=のちの総書記)が中国を初めて訪問した時に、金正日氏の前で、歌ったこともある。北朝鮮には『花売る乙女』という有名な映画があるが、その主題歌を朝鮮語と中国語で歌ったという。

「出身成分」がよくなかったと語る夫人

1980年、18歳で軍の歌舞団に入った。先ほど紹介したインタビューではこうも答えている。

「私はとても幸運でした。ちょうど改革・開放が始まった時でしたので、出身成分によって選抜されるという方法がなくなりましたから」

「出身成分」とは、社会主義国でいわゆる家庭の階級を指す。かつては資産家や地主もよくないとされてきた。以前、日本や欧米の国々と関係があったといものも。彭麗媛さんは続けてこう話している。

「父や祖父の出身はよいものではなかった。母もそうでした。また、叔父が台湾にいましたから。だから、本来なら軍には入れなかったでしょう」

どのように「出身成分」がよくなかったかを彭麗媛さんは語っていないが、父親は文革大革命の時に迫害を受けている。また、台湾にいる叔父とは、共産党との内戦に敗れた国民党の関係者なのだろう。「改革・開放」前だったら、共産党の人民解放軍に、自分はとても入れなかったということではないか。

その彼女がやがて、習近平氏と出会った。習近平氏が中国南部、福建省アモイ市の副市長だった1987年に2人は結婚。彭麗媛さんは結婚後も軍の歌舞団の歌手として活躍してきた。地方勤務が長かった夫の習近平氏は、ほとんど無名だったが、妻は「国民的人気歌手」。彭麗媛さんを知らない中国人は当時からいない。

先ほど紹介したテレビのインタビュー番組は2007年の放送。習近平氏が中央に躍り出る前のことだ。さすがにファーストレディになってからは、メディアのインタビューを受けることがなく、軍の歌舞団にも出演していない。本人もまさか夫が最高指導者になるとは思わず、インタビューを受けたのだろう。

波の中で生きてきたゆえの決意

習近平氏のひとつ前の国家主席、胡錦涛氏と、夫人とは大学のクラスメートだ。どちらかというと、地味な感じの女性だ。彭麗媛さんはまったく対照的なファーストレディといえる。

「改革・開放」政策の前なら、かなえられなかった人民解放軍の歌舞団に入り、そこで国民的スターになった。そのステータスもあって習近平氏と知り合い、結婚した。そして、夫が中国のトップ、自分はファーストレディになった。彭麗媛さんの半生をたどると、彼女も中国現代史の移り変わり、権力を巡ってのせめぎ合いという、様々な波の中で生きてきたことがわかる。

彼女は一冊の本になりそうな半生を歩いてきた。片や、夫の習近平氏も若い時には文化大革命によって、副首相だった父親が失脚するという苦難を味わった。「最高権力の座にある夫を、妻として全力でサポートする」――。ベトナムを訪問した時の立ち振る舞い、身のこなしを見ていると、彼女の決意を感じた。岸田総理夫妻とは、決意のほどが違うようにも見える。

そういう視点で、ファーストレディを観察するのもユニークだ。きょうは、国民的スターだった、習近平主席夫人の果たす役割を考えてみた。

◎飯田和郎(いいだ・かずお)
1960年生まれ。毎日新聞社で記者生活をスタートし佐賀、福岡両県での勤務を経て外信部へ。北京に計2回7年間、台北に3年間、特派員として駐在した。RKB毎日放送移籍後は報道局長、解説委員長などを歴任した。

田畑竜介 Grooooow Up

放送局:RKBラジオ

放送日時:毎週月曜~木曜 6時30分~9時00分

出演者:田畑竜介、田中みずき、飯田和郎

番組ホームページ
公式Twitter

この番組をラジコで聴く

※放送情報は変更となる場合があります。

© 株式会社radiko