中城城は「日本最強の城」 城郭考古学者の千田嘉博さんガイドツアー 護佐丸の築城技術を絶賛「本土より断トツに早い」

 城郭考古学者の千田嘉博(せんだ・よしひろ)さんによる中城城跡のガイドツアーが9日にあった。翌10日には沖縄県中城村の吉の浦会館で約400人に講演した。NHKの「日本最強の城スペシャル」でも活躍中の千田さんは「中城城の築城技術が本土各地に広がるのは約200年後。中城城は断トツに早く、断トツにすごい」と力説。中城城跡では自らもカメラを持って歩き回り、「もう、たまらないですよね。これぞ日本最強の城!」と叫んだ。(中部報道部・平島夏実)

 日本初の石垣の城は「織田信長が建てた16世紀後半の安土城」という説明は誤りで、中城城跡では14世紀中頃の石垣が見つかっている。千田さんは「中城城は日本列島の中で最先端の造り」と指摘し、石垣以外にも城に関する三つの先進技術を挙げた。

 一つ目は、守備にも攻撃にも有利な城内の「ルート設定」。中城城の正門前の空間は右も左も石垣に囲まれたコの字形。敵は両側から「横矢」を浴びる。万一突破できても、途中で本丸とは180度逆の方向に歩かされる構造のため、背中を狙われてしまう。16世紀終わりから17世紀初めにできた兵庫県の姫路城も同じ工夫が見られるという。

 二つ目は、籠城戦に備えた水の確保。護佐丸は中城城の「北の郭」を増築した際、ウフガー(大井戸)を囲い込むように城郭を巡らせた。豊臣秀吉が16世紀後半に築いた神奈川県の石垣山城は「井戸曲輪(くるわ)」と呼ばれる巨大な城壁が谷をせき止めている。

 三つ目は「本丸」を中心とした城の全体設計。中城城の場合、城主のいる「一の郭(本丸)」に行くには他の郭や門を複数通過しなければならない。県外では当時、本丸、重臣の「二の丸」、城主一族の「三の丸」が独立した形で配置され、並列的な関係にあった。本丸中心の城造りが広がるのは織田信長による天下統一後だという。

 千田さんは「護佐丸は誠にもって築城の名人。本土の侍の城だけ見ても、日本の城を理解したことにはならない。沖縄に来たら海に潜っている場合じゃない、中城城跡だ!」と宣言し、拍手を浴びた。

 イベントは中城村教育委員会が主催した。

中城城跡の正門前で解説する千田嘉博さん(右)=9日、同城跡
中城城跡の正門付近の防御技術

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