バスと電車と足で行くひろしま山日記 第67回石城山(山口県光市)

前回、山口県防府市の右田ヶ岳(https://hread.home-tv.co.jp/post-336047/)に登るために最寄りのJR防府駅に向かう途中、田布施駅(光市)でホームに立つ「名所案内」の看板を見た。「石城山(いわきさん)」が挙げられており、「重要文化財 石城神社」「こうご石」と書かれていた。「ハイキングによい」とも。調べてみると、古代の山城跡とされる遺跡があるという。歴史好きには見逃せない。右田ヶ岳の時は最高気温が20度近くまで上がる暖かさだったが、週末の天気予報では、一転して雪も舞う寒さだという。瀬戸内の低山ならなんとかなるだろうと考え、2週連続となる山口県の山・石城山(362メートル)に向かうことにした。

東水門の遺構

▼今回利用した交通機関 *時刻は休日ダイヤ
行き)JR山陽線(おとな片道1520円)/横川(07:28)→(08:13)岩国(08:17)→(09:04)岩田
帰り)JR山陽線(おとな片道1520円)/岩田(14:35)→(15:22)岩国(15:24)→(16:09)横川


雪の舞う中で出発


午前7時過ぎに自宅を出ると、外は雪が舞っていた。一瞬心が折れかけたが、予報では石城山のある光市は晴れ間も期待できるとのことだったので決行。岩国駅で電車を乗り換えるころには晴れてきた。

JR岩田駅から石城神社の参道に当たる三鍛冶屋登山口までは3.4キロ、徒歩で約50分の道のりだ。駅前からコミュニティ交通の光市営バス・岩田線(https://www.city.hikari.lg.jp/soshiki/11/kokyokotsu/1/1/9452.html)に乗ればすぐ(最寄りの須賀社まで6分、200円)なのだが、便数が少ないので要確認。今回は接続する適当な便がなかったので歩くことにした。

岩田駅前からまっすぐ北上する県道68号を15分ほど歩くと、前方に石城山が見えてきた。左側のピークが本峰で、電波塔が林立しているのは支峰の鶴ヶ峰だ。登山口の手前400メートルの三差路に「←石城山4km」の道路標識が出ている。車なら山頂駐車場まで行くこともできる(上記地図参照)。

JR岩田駅に掲げられた地元出身明治維新の志士のイラスト。初代内閣総理大臣伊藤博文は旧束荷(つかり)村の出身

県道68号から見た石城山

車で石城山の山頂に行くルートを案内する道路標識


荒れ道に苦闘


神籠石史跡の立つ三差路を右手に上る。三鍛冶屋の登山口には結界を示す石柱が立っている。ここを過ぎるとすぐに「石城山県立自然公園登山道」の標識があり、山道に入る。最初はよく整備された道だったのだが、20分ほど上って周囲が竹林になると、折れた竹が道に倒れかかっている。倒木ならぬ倒竹だ。さらに進むと、もうバリケード状態になっている。迂回もできないので、倒れた竹をくぐったりまたいだりしながら上る。ガイドブックにもメインルートとして掲載されている道だし、県立自然公園なのだからちゃんと整備してほしいものだ。悪戦苦闘すること10分余りで伊賀からの登山道との合流点に着いた。ここからは歩きやすい尾根道。10分ほどで広場に着いた。

石城山神籠石史跡の石柱。三鍛冶屋登山口は右、伊賀登山口は左へ向かう

結界を示す石柱

登山道の入口。最初はよく整備されているように見えたが…

途中、竹が倒れていて通り抜けるのに難儀した


維新志士らの夢の跡


この広場は神護寺という寺の跡地だ。江戸時代に長州藩が藩内の全町村から資料を出させて編纂した地誌「防長風土注進案」によると、本堂や庫裏、土蔵などを有する大規模な真言宗の寺院だったという。幕末に幕府軍が長州を攻撃した第二次長州征討(山口では四カ所の藩境で戦闘があったことから「四境の役」と呼ぶ。「第57回瀬戸内アルプス」[https://hread.home-tv.co.jp/post-269711/]参照)で活躍した第二奇兵隊の本陣が置かれていた。第二奇兵隊は処遇への不満をめぐる内紛から一部の隊士が反乱を起こして51人もの刑死者を出すなど混乱。幕府との開戦直前に本陣を専福寺(光市田布施町波野)に移している。

第二奇兵隊の本陣が置かれていた神護寺跡

神護寺は明治期に熊毛郡平生町に移され、いまは後世に立てられた記念碑や石仏があるだけだ。キャンプ場近くには練兵場の跡もあるが、当時の様子をうかがうことは難しい。それでも、維新回天の志をもった志士たちが数百人もこの山上で暮らし、訓練に明け暮れたであろうことを思うと、松尾芭蕉の名句の一節「兵(つわもの)どもが夢の跡」という言葉が自然と脳裏に浮かんだ。


古代山城の遺跡へ


神護寺跡に隣接する石城神社は、平安時代の延喜式の神名帳にも登場する由緒ある神社だ。春日造の本殿は国の重要文化財に指定されている。お参りを済ませた後、少し歩いて隋神門へ。元は神護寺の山門だったそうだ。

石城神社。本殿は国指定重要文化財

隋神門のすぐ先、左手の小路を上り、四季桜の咲く日本神社を経て最高峰の高日ヶ峰へ。石城山は五峰と呼ばれる高日ヶ峰、鶴ヶ峰、大峰、月ヶ峰、星ヶ峰の総称だ。高日神社のある頂上部は樹林に囲まれているが、東側に出ると周防灘から柳井の市街地、「周防アルプス」こと三ヶ岳・琴石山(https://hread.home-tv.co.jp/post-272081/)、対岸の周防大島が一望できる。

日本神社の境内に咲いていた四季桜

高日神社前から柳井市街、周防大島方面を望む

高日ヶ峰から標高差にして40メートルほど下ると、左手に遊歩道が延びている。

今回の山行の本番はここからだ。標高280~320メートルあたり、石城山の8合目付近を取り巻くように神籠石(こうごいし)と呼ばれる長方形に切られた列石がめぐらされている。総延長は2.5キロにも及ぶ大規模なものだ。かつてその上部は土塁になっていたという。東西南北4カ所の谷筋には石が高く積み上げられ、下部に水抜きの穴が設けられた水門になっている。土塁と水門で石城山の山上部を守る城壁の役割を果たしていたとされている。

山頂駐車場にあった神籠石史跡の案内図

これだけ大規模な城郭にもかかわらず、いつ、誰の手で築かれたのか一切記録が残っていない。

有力なのは、663年に朝鮮半島で日本軍と百済復興軍が唐・新羅の連合軍と白村江で戦って大敗した後、大和朝廷が朝鮮方面からの来襲に備えるために整備した防衛網の一つという説だ。日本書紀や続日本紀には、対馬・金田城(長崎県)や大野城(福岡県)、基肄城(佐賀県)、屋島城(香川県)などの朝鮮式山城が九州や瀬戸内海沿岸に造られたと記録されている。

石城山は史書には記録されていないが、ほかにも記録のない古代山城の遺跡が十数ヶ所あり、その規模や様式、立地から見て大野城などと同じ役割を担ったとみられている。


驚きの城郭遺構群


早速回ってみよう。まずは東水門だ。長さ60メートル、高さ5メートルほどの高さまで石垣が積み上げられた大規模な構造物だ。最下部に水の流れる穴がある。7世紀に造られたとすれば、1300年以上も前の遺構だ。石はかなり丁寧に整形されている。百済など渡来人の技術者の指導で作られたのだろうが、当時の技術レベルの高さを感じさせる。

約60メートルの石積が組まれた東水門遺構。中央下の穴が排水口

さらに進むと、遊歩道沿いに神籠石が現れた。長方形に成形された大石が帯状に山頂部を取り巻いていることから、発掘調査が進むまでは山頂部の神域と人里を区画する宗教的な施設だという説もあった。「石城山神籠石第一次・第二次調査概要書」(光市)によると、神籠石と呼ばれる列石は、もともとは土塁の深部に並べられており、その上に土を突き固めながら重ねて土塁(版築土塁)にしたのだという(図参照)。現在見えている神籠石は、土塁が失われた後に露出したものだ。

遊歩道沿いに露出している神籠石。古代山城の土塁の基礎部分だったと考えられている

土塁構築模式図(「昭和39年石城山神籠石第二次調査概要」から引用)

北門には門柱の基礎として使われたとみられる沓石が残されている。北水門は谷間の東側と西側にほぼ直角に石積み壁が組まれている。東側は長さ21.3メートル、高さ4.1メートルで、やはり下部に排水口が設けられていた。西側には排水口はなかった。

北門の門柱の礎石だったと思われる沓石

北水門。谷間にほぼ直角に石積み壁が組まれている。

北水門の排水口

西水門は二段構えの構造。上方から見ると最上部にもう一段あるようにも見えた。東や北に比べて石に加工された跡があまりなく、野面積みのように思えた。

西水門の全景

上方から見た西水門

約1時間で一周し、神護寺跡に戻った。以前対馬の金田城に行った時も山上に築かれた城跡の規模に驚かされたが、石城山の城郭遺構の規模や保存状態にも驚嘆した。当時の為政者の危機意識を感じると同時に、山上の大工事に動員されたであろう人々の苦労を思った。

神護寺跡に戻ってきた


ハリスホークに出会う


遺跡巡りを終え、少し遅い昼食。寒いことはわかっていたので、今回もカップヌードルだ。食べ終えて休憩していると、車で登ってきた家族連れがやってきた。なんと、お父さんはタカを従えている。驚いて「鷹匠ですか?」と尋ねると、猟をするわけではなく、ペットなのだそうだ。日本の鷹ではなく、アメリカ大陸原産のハリスホークというのだそうだ。屋内では飛べないので、たまにこうして野外に連れ出してあげるのだそう。ご主人の腕から飛び立ってしばし遊んでいたが、家族が車に向かうと呼ばなくても後を追っていた。賢い。ちなみにハリスホークというとかっこいいが、和名になるとモモアカノスリという微妙な呼び方になる。

厳寒の山上でカップヌードルの昼食

山上で出会ったハリスホーク

凛々しい立ち姿

往路の荒れ道に懲りたので帰路は伊賀方面に下る。よく整備された道なので、登山・下山ともこちらの利用をお勧めする。

伊賀へ下山する道。歩きやすいのでこのルートの利用がおすすめ。登山口脇に駐車スペースもあり

JR岩田駅に帰り着いたのは14時20分。幸い14時31分の岩国行きに間に合ったが、9時~15時台は1時間に1本程度しか電車がないので要注意。総歩行距離は12.8キロだった。

JR岩田駅に帰着

年内は今回で最後になります。今年もご愛読ありがとうございました。遠征編や番外編なども含めると連載は今回で79回になりました。山歩きの参考にしていただいたり、web登山を楽しんだりしていただければうれしいです。2024年もよろしくお願いします。

2023.12.17(日)取材 《掲載されている情報は取材当時の内容です。ご了承ください》

ライター えむ
50代後半になってから本格的に山登りを始めて5年ほど、中四国の低山を中心に日帰りの山歩きを楽しんでいます。できるだけ公共交通機関を利用しますが、やむを得ない場合に時々レンタカーを使うことも。安全のためトレッキングポールは必ず携行。年齢のわりに歩くのは速い方です。
■連載コラムバスと電車と足で行くひろしま山日記

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