【特集】太平洋戦争開戦から82年 軍神になった若者達 真珠湾とヒロシマ

【動画】軍神になった青年 真珠湾とヒロシマ

82年前の1941年12月8日、日本軍がマレー半島と、ハワイの真珠湾を相次いで奇襲し、太平洋戦争戦争の火ぶたが切られました。今回の特集は、真珠湾と被爆地・ヒロシマとの関わりを探ります。

明治時代以降の多くの戦没者をまつっている、広島護国神社。上田賢治(かみた・けんじ)さんは68歳。12月8日は叔父の命日だ。上田さんの叔父は、82年前の開戦の日、「神」になった。

1941年12月8日、ハワイの真珠湾。日本軍が奇襲攻撃を仕掛けた。攻撃は、航空機だけではなかった。2本の魚雷を装備した秘密兵器。「甲標的」と呼ばれた特殊潜航艇だった。乗組員は2人。5隻に分乗した10人の若者が、真珠湾に向かった。その中に、現在の北広島町出身の青年がいた。当時・25歳の上田定(かみた・さだむ)さんだ。「甲標的」に乗って奇襲攻撃を成功させたとして、日本軍は、戦死した上田さんら9人を神格化、「軍神」とした。一方、生き残った1人は、太平洋戦争で最初の捕虜となった。

広島県北広島町の上田さんの自宅には、「軍神」となった叔父の「遺品館」がある。(一般非公開。)

■上田賢治さん

「これが遺書になります。『未曽有の大国難に身をもって、一部分たりとも打開すべく、決死隊の一員として出発することと相成りました。七生報国もって、国難に殉ずる覚悟です。』潜水艦自体が魚雷を2発前につけて、1発ずつ撃つごとに反動で浮いてしまう、見つかってしまう。いちばん最初に逝って、プロパガンダというか、国民の意識をひとつに、戦争の中に置くのに話をしやすいということ。戦意高揚に利用されたのかな。」

1冊のアルバムを取り出した上田さん。そこには、高校球児だった頃の叔父の姿があった。

■上田賢治さん

「ふつうの少年だった。目立たないような。でも、自分のやりたいことをやっていた、普通の一般の少年だった、野球好きの。」

広島市の平和公園と、ハワイのパールハーバー国立記念公園による「姉妹公園協定」の締結は、2023年6月。その目的は、太平洋戦争の当事者間の相互理解と、平和の推進とされている。この動きに対して、被爆者団体などが批判の声をあげている。議会での議論を経ていないことや、広島市幹部による原爆投下責任の「棚上げ」発言が、その理由だ。

10月にあった広島市の定例記者会見で、広島市の松井市長は、「棚上げ」発言についての質問に、いらだちを隠せない様子だ。

Q.棚上げという言葉を使ったという・・・

■松井市長

「棚上げは、(原爆投下責任の議論)をしなかった説明をしたと申し上げている。その期間(原爆投下責任)議論しなかった、やらずにきましたと説明しただけ。それ以上でも以下でもありません。」

G7広島サミットの直前に、アメリカ側が締結を打診したとされる「姉妹公園協定」。日米関係を研究する専門家に聞いた。

■奈良大学 高橋博子教授

「日本が戦争を起こした。それに対して、アメリカが戦争に参戦せざるを得なくなった。原爆投下によって戦争が終了した、というイメージ。アメリカにとって、パールハーバーをもって原爆が正当化できる、という発想になるわけです。パールハーバーについて問題にしないアメリカ側の代わりに、日本も原爆について問題にしないでくださいね、という協定ではないか。」

広島市の松井市長が真珠湾を訪れたのは、現地時間の12月1日だった。真珠湾攻撃によるアメリカ人犠牲者を追悼する施設などを視察。公園の責任者などと、今後の交流について協議した。

叔父が、真珠湾攻撃で戦死した上田さんにとって、今回の平和公園との姉妹公園協定とは…

■上田賢治さん

「平和のために(姉妹公園協定を)やっていこう、という意思ではないかと思う。いいんじゃないかなと思う。ただ、でも原爆投下を正当化するものではないと思う。戦争を起こさないと(日米)お互いが考えながら、一緒に歩んで行く方法を模索していくことになればいいかな。」

日米開戦から82年。姉妹協定を結んだ平和公園とパールハーバー。締結を巡る議論は、今も収まっていない。そして、「軍神」となった北広島町の青年は、今も真珠湾で眠っている。

【テレビ派 2023年12月8日放送】

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