鮎川義介物語①葬儀で、岸信介が弔辞「満州で貢献」

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・日産自動車や日立製作所をつくった男、鮎川義介。「大衆持ち株会社」を導入した。

・昭和42年2月17日、怒涛の経済成長の中、築地本願寺で鮎川の葬式が営まれる。享年86歳。

・友人代表として弔辞を読んだのは岸信介。弔辞で鮎川の仕事ぶりに敬意を払う。

私は平成2年にマスコミに入り、記者を始めました。2年前に会社を辞め、政治家になりましたが、ずっと現場取材をしました。主に経済です。いつも待望していたのは、傑出した起業家の出現です。日本の近現代史を探ってみると、そうした点では、ものすごい起業家が現れ、日本を変えているのです。これまでもお伝えした浅野総一郎。京浜工業地帯の父とも言われますが、日本の近代化の礎を築きました。

さて、今回、新たに取り上げるのは、鮎川義介です。日産自動車や日立製作所などをつくった男です。貧富の差が大きくなった昭和初期。「貧富の格差をなくすことこそが実業家の使命だ」。財閥の一族だけが儲かるのではなく、幅広く株主が儲かる「大衆持ち株会社」を導入しました。鮎川は当時、絶大な人気を誇ります。

さて異色の起業家の葬儀の風景から、物語を始めます。

東海道新幹線の開通と東京オリンピックを経て、高度成長時代の真っ盛りです。オリンピック景気の反動で昭和40年こそ、景気は悪化したものの、翌41年からは怒涛の経済成長が始まります。車、エアコン、カラーテレビが三種の神器と呼ばれ、大衆消費社会に突入していました。

「経済大国」「エコノミックアニマル」という言葉もはやり、終戦直後の焼野原は遠い歴史となりました。日本人は敗戦で打ちひしがれた自信を完全に取り戻したのです。

そんな昭和42年2月17日、東京・築地本願寺で一人の男の葬儀が営まれました。鮎川義介、享年86歳です。戦前は新興財閥として一世風靡していました。

4日前に1年ぶりの大雪に見舞われた東京ですが、この日は一転して青空が広がり、春一番が吹いていました。

友人代表として弔辞を読んだのは、総理大臣を経験した岸信介です。2人は、山口中学の前身、山口高等学校、東京帝国大学の先輩後輩だった。鮎川は岸より16歳年上です。かねてから知っていましたが、親しく付き合ったのは、岸が商工省の工政課長をしていた昭和7・8年の頃だったといいます。

岸はゆっくりと語り始めました。

「当時日本の自動車工業の確立の問題について意見を交わして以来、35、6年の長い間、格別親しくして参りました。その間、私が満州国の実業部次長の時、満洲重工業の総合開発の計画を進めるについて、鮎川さんは日産コンツェルンの人材を率いて満州重工業開発株式会社の初代総裁として参画され、満洲の産業開発に大きく貢献されました」。

岸は弔辞の中で鮎川の仕事ぶりにも敬意を払った。

「鮎川さんの事業哲学といいますか、無駄というものを一切排除する、合理主義、能率主義の徹底したやり方でありました。日曜日を無駄にしないということで満業総裁時代に東京と新京との往復は必ず日曜日を利用し、月曜日はちゃんと会社で事務を見ておられました」

さらにこう続けました。

「鮎川さんの事業に対する計画は極めて綿密でしかもそれが定まると、電光石火の如く実行に移しました。何か新しいアイディアが浮かぶと、夜中であっても私のところに電話してきました。それも用件だけをずばりと言って決して余分なことは言いません」。

鮎川義介と岸信介はいったい何がきっかけで親交が始まったのでしょうか。

(②につづく)

トップ写真:鮎川義介肖像画 出典:国立国会図書館ウェブサイト(『風雲児鮎川義介 山崎一芳著、東海出版社 昭12』

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