凄絶不登校経て見つけた「光」 京都の17歳版画家、親子で死よぎる日々 彫りに心込め生きる

小学5年で最初に彫った神奈川沖浪裏(吉田さんの母提供)

 17歳の木版画家として、時にメディアで「天才」とも評される京都の吉田悠太さんは、小中学校の多くを不登校で過ごした。

 世の中が定める「当たり前」からドロップアウトした現実を受け止められず、学校へ力ずくで連れていく母。息子は「生きる意味がない」と母をなじった。激しくぶつかり、母は「殺して死のう」とまで思い詰めた。

 小学5年で出合った版画が道を開く。中学卒業後に版画作家として独立し、2023年に世界遺産・二条城(京都市)で開催されたアート展にも出品し、話題を呼んだ。親子が苦しみ悩んだ果てに、一筋の光があった。

 京都府南丹市の自宅兼工房。「木版画 馗(みち)」という屋号が額に掲げられている。棚には、目標とする大正、昭和期の版画家川瀬巴水の本や、漫画「名探偵コナン」が並ぶ。

 行き届いた敬語と正座を崩さない折り目正しさからは不登校の日々を想像するのは難しい。

 おとなしい子どもだった。小学校に入ると、大勢で一斉に学ぶ学校という場所に拒絶反応が起きた。

 「集団行動がきつかった」。人としゃべるのも恥ずかしい。登校前になると「嫌という気持ちが前面に出るようになった」という。

 学校に行かないという選択肢は、母ら周囲にはない。トイレに閉じこもって抵抗をたくらむが、外から鍵を開けられた。「くそやろう」。泣き叫んでも事態は変わらない。母に引きずられて車に乗せられ、教室へ放り込まれた。

 1年は遅刻しながらも通ったが、2年になると他の児童が帰宅した後に短時間、顔を出すくらいになった。

 無理に連れていかれるほど学校への嫌悪が募る。親に気持ちを一番分かってほしいのに…。「あんたに何が分かんねん」と母に感情をぶつけた。「生きる意味が分からず、死んだ方がいいと言った」

 母は「地獄の毎日だった」と振り返る。道行く児童が通学リュックに着けた鈴の「チリン」という音、外遊びの声…。あらゆるものが心に波を立て、涙がこぼれた。「なんでうちの子は行けへんねん」と悩んだ。

 母の耳には「甘やかすから」という言葉も届いた。世間体も気になった。「近くのスーパーにもよう行きませんでした」と話す。

 「『生きていてもしょうがないから殺せ』と言われた。こんな思いをしているのなら、殺して死のうかと思った時さえあった」と明かす。「でも、寝顔を見たら殺せませんし…」。不幸な掛け違いがあれば、今ごろどうなっていただろうか。

 小学2年の終わり頃、問題がないことを確認する程度のつもりで、発達障害に詳しい花ノ木医療福祉センター(京都府亀岡市)を受診し、高機能自閉症スペクトラムと診断された。

 一般に、知的発達に遅れはないが、対人関係に課題があるとされる。3歳児健診で問題はなかった。母は「自閉症という言葉がのしかかり、その日はどうやって帰ったか覚えていない」という。

 だが、アインシュタインも同様だったと言われているのを知り、母は向き合い方を変えた。「優れた業績を残した人がいる。この子にも何かがあるかもしれない。それを探そう」と考えた。「行きたがるまで学校は行かせなくてよい」

 以来、宇宙の本や将棋盤など、関心の向くまま与えた。仏像や社寺に興味がわけば、京都市の天龍寺や仁和寺、京都国立博物館などにも盛んに連れて行った。

 

 

小学5年の時、足を運んだ京都市内で開かれていたゴッホの美術展が転機となった。ゴッホが影響を受けたとして展示されていた葛飾北斎の浮世絵「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」に目を奪われた。今にも崩れ落ちんばかりの波と富士山。一気に引き込まれ、版画を彫るようになった。

 没頭した。専門書を読み込み、朝から翌朝まで彫り続けた。母は打ち込みようを心配しつつ見守った。「親から見ても感心するほど」と振り返る。

 

 天才、異才との周囲の評に、母は「ただの凡人」と言い切る。物事に集中する特性と、好きなものとがうまくかみ合えば、誰でも素晴らしく飛躍できるのかもしれない。

 高校には進まず、16歳で自分の屋号を掲げた。朝から晩まで技を磨き、順調に個展を重ねる。23年5月に京都市で開いた際は6日で30万円を売った。「購入者は面識のない人が多く、自信になった」と喜ぶ。

 東京のギャラリーから声がかかり、二条城での「artkyoto2023」には平等院鳳凰堂(京都府宇治市)などを題材にした作品を出した。

 

 その後も各所で出展。活躍を広げる姿に母は「不登校を責め続けたら、今はなかったと思う。あの時、殺さんでよかった」と、どきりとするような冗談を飛ばす。

 もっと早く受診していれば家族の葛藤は少なかったのかもしれない。だが、母は「あのつらさがあったから、必死に道を探したのだと思う」と捉える。吉田さんも「不登校があって、今の自分がある」と断言する。

 府内の国公私立の小中学校で22年度の不登校の児童生徒数は、前年度より1162人増えて5627人となり、過去最多となった。「不登校は親の責任」。自治体のトップが、いまだにそんな発言をする。不登校への理解は深まっているとは言えない。

 「不登校への偏見をなくしたい。不登校の子どもに、自分の経験から何か伝わるものがあるとよい」と吉田さんは思う。

 一方で、「作家として認められてこそ言えること。今の自分にまだ説得力はない」と自覚する。高みを見据え、一彫りに心を込める。「人を驚かせる作品を生み、木版画と言えば吉田悠太と言われるくらいになってこそ言葉は人に響く」。歩みは始まったばかりだ。

小学校に入って間もないころの吉田さん。次第に学校への拒否感が強まっていく(吉田さんの母提供)
京都市の京都国立博物館で写真に収まる小学4年のころの吉田さん。美術館や神社、寺に足を運び、さまざまな体験をした(同)
小学5年で初めて彫った神奈川沖浪裏
細かな線を彫っていく。集中と根気が欠かせない作業だ(京都府南丹市)
愛用する道具(同)
新作の平等院鳳凰堂。細かな線に確かな技術の向上が認められる
あどけなかった顔つきはすっかり青年になった。「木版画と言えば吉田悠太と言われるくらいになりたい」。たやすい目標ではないからこそやりがいがある(京都府南丹市)
最新の神奈川沖浪裏

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