出町譲(高岡市議会議員・作家)
【まとめ】
・終戦直後、準A級戦犯として巣鴨の拘置所で獄中生活を送った鮎川。
・鮎川は戦前、巨大財閥日産コンツェルンを10年足らずで築き上げる。
・当時自動車業界で圧倒的なアメリカに怯むことなく、国産車「ダットサン」で成功を収める。
総理大臣だった岸信介はさらに、終戦直後、鮎川とともに戦犯として巣鴨の拘置所に張っていたことにも触れました。「戦後戦犯容疑で共に巣鴨に入っていた頃に散歩の時間に、私のいる獄窓の下を通る折に、連絡事項を書いたり、時には元気でいるかと書いた紙片を窓から投込んだりして、それが見付かって大目玉をくったこともありましたが、今となっては懐かしい思い出の一つであります」。
岸は終戦を迎えた昭和20年8月15日、東条内閣の重要閣僚だったため、A級戦犯被疑者として逮捕されました。2年4カ月収監されました。鮎川もまた4カ月後の12月に拘置されました。満州重工業開発の総裁を務めたため、準A級戦犯という扱いだった。こちらは20カ月間の拘置です。
戦前には、こんな言葉が流行りました。
「二キ三スケ」。
関東軍参謀長の東条英機(キ)と国務院総務長官の星野直樹(キ)。それに満州重工業開発の鮎川義介(スケ)、総務庁次長の岸信介(スケ)、満鉄総裁の松岡洋右(スケ)を指します。
満州を牛耳っていた5人を揶揄する言葉です。5人は終戦後、いずれも戦犯容疑で「巣鴨プリズン」で獄中生活を送りました。
この中で唯一民間人だったのが鮎川です。満州重工業というのは、日本政府と日産が共同出資して作った半官半民の会社です。この会社は、満州を重工業化するのが業務です。そのトップについたのが鮎川でした。
戦前の鮎川の勢いはすさまじいものでした。巨大財閥をわずか10年足らずで築いたのです。実に資本金2億2500万円という巨大グループを築き上げたのです。それは、三菱の1億200万円を上回り、三井の3億円に次ぐ規模です。恐らく日本の産業史上最も急速に勢力を拡大した起業家でした。
鮎川の財閥は日産コンツェルンと呼ばれ、今も残っている企業としては、日立製作所、日産自動車、JXホールディングスなどがあります。
鮎川の絶頂期は戦前と戦中でした。新聞紙上では連日、取り上げられました。特筆すべきは、日産自動車を創業したことです。トヨタ自動車の創業者に当たる豊田喜一郎とともに、日本の自動車業界のフロンティアを担ったのです。
昭和初期は、フォードやGMといったアメリカの自動車メーカーが世界を席巻し、日本市場でも圧倒的な存在感でした。日本メーカーが国産に踏み切るには、当分の間、赤字を覚悟しなければならず、旧来型の財閥は躊躇したのです。
その間隙をぬったのが鮎川です。国産自動車の大量生産に着手しました。昭和6年にダット自動車製造の株の大半を取得し、小型乗用車ダットの製造販売権を手に入れました。その2年後、横浜子安の埋め立て地2万坪を購入し、小型乗用車「ダットサン」を大量生産する体制を構築しました。「ダットサン」ブランドは長く、日産の主力商品となりました。
鮎川が脚光を浴びていた時代に戻ります。
(③につづく。①)
トップ写真:1964年東京オリンピックにて 日産トラック 出典:Express / GettyImages