100周年迎える「まちのパン屋さん」 心もお腹も満たした歴史 年360日焼き続ける理由は?/岡山・津山市

目玉焼きが丸ごと乗った厚いハンバーグをふかふかのパンではさんだハンバーガーは、物価高騰の現在でも200円でおつりがくる。「たまごサンドを食べる時はスプーンが必要」は決してオーバーではない。あんパンだってずっしり重い。おいしい、たっぷり、安いの三拍子。棚の調理パン、菓子パン問わず全てそうなのだから二度、三度驚かされる。子どもからお年寄りまで、庶民に寄り添いお腹も心も満たしてくれる。岡山県津山市元魚町にある”まちのパン屋さん”「シンプロン」がこの3月、100周年を迎える。

県内のパン黎明期の1924年、同市下紺屋町で初代・植月豊信氏が植月パン有限会社として創業した。元魚町商店街の入り口にある現店舗から目と鼻の先。津山で最も早く創業したパン屋の一つで、地元の業界をけん引した。

戦後は、パン需要の高まりとともに事業も拡大。工場の2階には職人5人くらいが住み込みで働いていたという。創業者の長男・寛一氏の長男で、現在は東京の洋菓子メーカーで品質管理をしている植月雅文さん(70)は「幼少のころ製パン場によく出入りして遊んでいた。複数の縦型大型ミキサーや自動生地分割機、パン焼成釜など当時最先端だった。配達用にマツダのオート三輪、プリンスのトラックがあり、景気が良かった」と振り返る。

1960年ごろ、2階建て鉄筋コンクリートの工場を新築、1階は製パン、2階が和洋菓子工場に。学校給食と商店にパンを卸す卸事業と、小売の「シンプロン」に分かれた。

卸事業は69年に県北地域のパン屋が企業合同して「サクラベーカリー」を設立し、同市領家に工場を建設。75年に「津山アサヒブレッド」と改称し、工場を同市福田に移転した。81年、岡山木村屋の卸売専門子会社のアサヒブレッドに吸収合併。

元魚町商店街に「シンプロン」が移転したのは69年。創業者の三男の稔氏が担当した。客が豊富な種類から選ぶセルフサービス型をいち早く導入した先駆的なベーカリー。「おしゃれなまち津山の、おしゃれなパン屋さん」。そう話すのは、いまもほぼ毎日パンを買いに来ており、高校時代からのファンだという歯科医院長・豊福恒弘さん(72)。「稔さんが最高のブリオッシュを焼いてくれた。津山で初めて本格的なクロワッサンを食べさせてくれた」。

早朝の厨房はまるで戦場だ。夏冬問わず、トレードマークともいえる白の肌着を着た植月道章社長(57)が、ところせましとパンを焼く。惣菜パンは妻・圭子さんの担当。「盛り付けはエンターテインメント」とほほ笑む。あのメガ盛りを実現するために1日100~200個の卵をゆでる。「焼き立てを食べてもらうのが一番」と数十種類のパンを一気に焼きあげ、店売りは昼までにほぼ売り切る。

道章さんがパンを焼き始めたのは30歳のころ。商店街の人通りはすでに少なくなってきていた。そんな時代と対話しながら、先代のパン作りから大きく舵を切った。根っからの職人かたぎで365日のうち360日はパンを焼く。「パン屋にパンを焼く理由はない」と記者泣かせ。

津山市出身で米国松下電器の社長、会長などを歴任した岩谷英昭さん(78)=東京都=は、道章さんのことを気が置けない友人だと思っている。「シンプロンのあんパンは東京なら倍の値段でも売れる。値上げするべき」と何度も諭したが、かたくなに首を縦にふらない。あるとき道章さんは「お客さんが喜んで食べてくれたら、それでいい」ともらしたという。

先代のころからシンプロンは子どもたちに人気だ。親ガメ子ガメの亀パンはいまだ話題に上る。子どもの顔と同じ大きさの 「アンパンマンパン」は、いい子にしているともらえる―と、子どもたちが心待ちにしている。先代のころと変わらぬ 「味パン(つやまのメロンパン)」と、道章さんオリジナルのミルク味の「ほねっこ」は特に人気を集めている。

「店の前にあったピアノ教室の子どもたちがよく来てくれた。このまちあってこそ。これからもここでパンを焼いてく」

子どもたちの笑顔を思い出しながら話す道章さんの一言にパンを焼く理由がつまっていた。

豊富な商品が並ぶ棚

レジを打つ圭子さん。たくさん買う人が多いのが特徴

植月製パン。左が創業者・植月豊信氏の長男・寛一氏

お店の外観

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