鮎川義介物語③「自国で自動車産業を育成すべき」

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・日本は世界から孤立しつつも、数々の勝戦から「アジアの盟主」としての自覚芽生える。

・「風雲児」鮎川義介は、貧富の格差に目を向け自動車産業に着目。

・テロリストが跋扈する物騒な世の中で鮎川は日本のために尽力し人気博す。

鮎川義介が活躍していたのは、日本が戦争に向かって突き進む時代でした。国全体が、荒波にもまれて操縦不可能な船のようでした。

関東軍は昭和6年9月、奉天付近の柳条湖で、南満州鉄道を爆発しました。それを中国軍の仕業だとして開戦に踏み切ったのです。

わずか5カ月で満州全土を占領しました。関東軍は傀儡政権を樹立。ラストエンペラーで有名な愛新覚羅溥儀を国家元首にあたる「執政」に就かせ、7年3月1日に満州国の建国が宣言されました。中国市場への進出を狙っていたアメリカなどは痛烈に批判。日本は世界から孤立しました。

しかし、一方で国民の中では、自信が芽生えていました。明治維新以降、日清戦争、日露戦争と立て続けに、勝利。さらに第一次世界大戦でも戦勝国となり、国民の中に「アジアの盟主」といった自信が広がっていたのです。

こんな日本の現状を冷めた目で見つめていたのは、鮎川です。50歳を超えてはいたが、人々は「風雲児」と呼んでいました。

「世界と伍していける工業は造船と機関車の製造ぐらいじゃないか。日本では貧富の格差は広がるばかりだ。結局、日本の国が豊かになるため、新たな産業が必要だ。産業のすそ野の広い自動車産業を育成すべきだ。いま日本国内を走っているのはアメリカ車ばかりだが、この状況をなんとか打開したい。俺はすぐにでも自動車産業を日本に根付かせたい」

鮎川は、国産自動車の大量生産こそが、日本経済全体の底上げにつながると考えていたのです。それは、経営者としての冷徹な計算を基にしていました。自動車は、5000もの部品が必要。自動車が発展すれば、鉄鋼や電気機器、ベアリング、ガラス、ゴムなどすそ野の広い関連産も発達します。

「貧富の格差をなくすことこそが実業家の使命だ」。念頭にあったのは、社会を豊かにすることでした。これだけ貧富の格差があっては、日本の発展はおぼつかないと思ったのです。

日本は、アメリカの恐慌によって、生糸の輸出は大幅に減少。生糸の価格は暴落していました。米価も急落。朝鮮半島や台湾からの輸入が急増したためです。そして追い打ちをかけるような東北地方の冷害です。女子が身売りなどされ、不満が渦巻いていました。

槍玉にあがったのは、財閥と政治家です。昭和7年2月、血盟団事件が起きました。首謀者の井上日召は「私利私欲のみに没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」と名指しし、20人以上の暗殺を企てました。そして、血盟団のメンバーは総理大臣の井上準之助や三井財閥の團琢磨らを殺したのです。

その3カ月後の5月。今度は大日本帝国海軍の青年将校による「決起」でした。ワシントンやロンドンの軍縮会議で、日本側は大幅な軍縮を求められたことに関して、不平等だと主張。総理大臣官邸に乱入し、総理大臣の犬養毅を殺害したのです。有名な5・15事件です。不景気なのは、腐敗した政治家や財閥に責任があるという考えでクーデターを起こしたのです。テロリストが跋扈する物騒な世の中でした。こんな時代に国民的な人気を博したのが鮎川なんです。

(④につづく。

トップ写真:1950年頃、ミシガン州ディアボーンにあるフォード組立工場の生産ライン(本文とは関係ありません)出典:FPG / GettyImages

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